|


熊本県長洲町安正寺
エコウ8月号第320号
2002年8月1日発行
|
今 現に 是 倶会一処
|
|
|
不足、不満、無明の世界。それを三悪道と言います。不足、それは充分でありません。不満、これも欠けています。何故充分でないのか、満足が無いからです。どうしたら満足になるのか、目的と手段が不明だからです。
ではその目的は何か、自由になりたい。自由とは、自分の思い通りになりたいと言う事ですね。誰でもそう思いながら、今日までの旅を続けて来たものですね。思い通りになったでしょうか。何一つ思い通りになったものはありませんね。でもそこに、今現に、貴方は生きています。生きている現実の姿。貴方に見えますか。
外側の体の見える部分は見えても、心の中までは見えないでしょうね。自分の心ですから、自分で見える筈だと思っていますが、なんと此れほど難しいものはないのですね。自分で自分が見えない、でもそのかわり、他のすべてが見えると言ってみても、見えたつもりで、全く見えてはいないのです。それは、自分の思いで、自分の心に描き込んでいるだけなんですね。
そこから、自分の思いに反する物への怒りとなり、思うようにならない自己への愚痴となり、世の中が闇のようにみえて、不足不満の塊となり、未来も、現在も、過去をも失って、暗黒=地獄となって、生きる気力を失ってしまいますね。
これを佛教は、人間の病、無明煩悩の三つの毒に犯された、難治、難病の人と教え、もう一つ、その事に全くきずいていない、縁なき人と示されて、特にその人を目当てに起こされたのが、弥陀の本願でした。
人間は皆、自分の思いを拠り所として、生きる外にありません。私の思いの外に私はないからです。でも私の思いの前に既に世界はありました。私が思って初めて世界が出来たのではありません。人類生誕の前から宇宙は存在し、全ての生物が現象し、生成して来た歴史があります。その歴史を貫通して働き続けてきた言葉、生命の言葉、それが南無阿弥陀仏と言う言葉です。「ナモアミダブツ」「ナムアミダブツ」と発音しますが、中国から来られて、親鸞聖人の聖典、「教、行、信、証」を精読して、人類畢竟の世界、弥陀の浄土からの生命の声、それが、南無阿弥陀仏「ナンアミトフォ」であると力説していらっしゃいます。
浄土の」三部経。はこの世の実相、佛の世界の真相を、余す所無く説かれてあります。釈尊の説法を聞いたお弟子たちの、命がけの記録。それを読んだ、有縁の人人の情熱、仏陀の人情を超えた大悲、人類深遠の問題解決の為に命を捧げられた高僧方の悲願の最先端に立たせて頂いている私達ではないかと思いますね。
つまり過去一切の仏たちの大いなる願いの全体を身に受けて今生かされている私達であると思い知らされますね。
大無量壽経は、如来様の心底からの大いなる願いがはっきりと示され、その願いが完成して、如来の願と、その働きとが成就して「南無阿弥陀仏」と言う、名が現実に働き、その名は称える人の力となって、周りに光を投げかけて清浄と安穏の世界を実現して下さいます。
それを、親鸞聖人は、和讃に、
五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば
不可称 不可説 不可思議の
功徳は 行者の 身に満てり
と讃嘆していらっしゃいます。
阿弥陀経の中に、極楽国土に生まれる人は、皆、安心不動の精神界に抱き守られ、一生をゆったりと生き尽くし、二度とやり直す必要の無い人生を歩み、必ず弥陀の浄土に生まれさせていただく身を生き尽くすことが出来る人々と今一緒に生きる事が出来ると言う事を「倶会一処」と言うんですね。
八月は、お盆。お墓参りに、お出かけの時、そこに「倶会一処」と言う文字を発見なさるでしょう。其処に今、一緒に生かされている身の喜びを戴くのです。
|
|