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熊本県長洲町安正寺
エコウ7月号第319号
2002年7月1日発行
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本願の言葉南無阿弥陀仏
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歎異抄の最初に、弥陀の本願不思議に助けられまいらせて、往生おばとぐるなりと信じて、とありますが、実は法蔵菩薩の本願ですね。弥陀の本願と法蔵菩薩の本願。それは、真実の本願と、現実の本願と言って良いでしょう。阿弥陀仏は真実世界の実相を表し、法蔵菩薩の本願は、現実世界の実相を表します。法華経に諸法実相とありますが、真実世界の実相と現実世界の実相を、共に表していると言って良いでしょう。つまり真実世界の実相が現実世界の実相として今現に働いていると言う事を表しています。真実の世界、それは、虚仮不実の眼では見る事は出来ません。私達の認識の外にあります。私達の認識は、自我を中心とした諸現象を言います。其処から出てくる認識は、諸々の苦悩として姿を表して来ます。それを、三悪道と言いますね。三つの逃れたい世界。地獄、餓鬼、畜生。地獄と言う言葉で表される世界は、あらゆる状況の中に見出されますね。極苦の世界を表します。極まり苦しみの世界。そんなでもありません。と言ってみても、とことん付き詰めて見れば、苦しみは極まりありません。つまり無明の認識の域を出る事が出来ないと言う事です。私達の認識の根源は無明にあります。無明は、明が無いと言う事です。光がありません。光は智慧を表します。智慧は知識とは違います。知識は、経験の積み重ね。自我認識の積み重ねですから、個人の領域の認識を離れる事が出来ませんから、他との交流は極めて難しくなって、孤立して行く事になってしまいます。
人間は孤立程、悲しく苦しい物はありません。キリストの言葉に、心貧しき人よ。とありますが、宝である、真実の智慧が無い事を表しているんですね。
弥陀の本願では、諸々の貧しさによる苦しみを抜き取って、喜びの生まれくる真実の智慧を与えたい。と言うのが、弥陀の本願であり、法蔵の本願ですね。真実の智慧は、真理の道理。それは、真理が現実の生活の上に働いて、認識し得ない道理に頷かせられる事実を言います。だから歎異抄の第一章の始まりに「弥陀の誓願不思議」と語り始められるわけです。真理であり真言です。真の道理を表す言葉。言葉は心を作ります。心を作る言葉は、大事であり、大切な物です。どんな言葉を持つか、御縁によって、土地の言葉を持つ事になります。土地柄は言葉によって、作られます。固執すれば、狭い世界の住人となります。広く色々な国の言葉を知れば、色々な国の心を知る事になります。そしてある国には有り、ある国には無い言葉がわかって、言葉の不足は心の不足に関わって来ます。不足である限り、満足は出来ません。ここから餓鬼の世界が広がって来ます。広がると言う事は、積み重ねられると言う事にまって、深まって行きます。不足が深まれば、手段を選ばない歩みが始まり、人の道を踏み外す邪道を歩く事となって、政治経済倫理道徳を踏み外す、新聞紙上を賑やかす情景が湧出して、今日の社会の情勢は、その事ズバリではないでしょうか。それを、本願では、第一願に三悪道の無い世界を実現したい。とあります。地獄、餓鬼、畜生の三つの暗い世界を取り払いたい。と言う願いは、実は完成して、南無阿弥陀仏と言う言葉となって、私達の耳に聞こえて居ます。これが真実の道理を示す言葉です。地獄は無明によって作られます。地獄に縛られて、不足不満の餓鬼となり、餓鬼が狂って畜生となり、孤立無援の人間界から追放された、深い暗黒の絶望の世界に住する事となって、太陽も月も星も輝いている中に何も見えない世界に生きる事となって、生きる事が流される事となって、空しく自ら孤独の旅を続ける事になります。これは誰も望むものではありません。此処に本願は、南無阿弥陀仏と言う言葉を一切の命ある物に与え、その言葉によって三つの悪道を離れる働きを与えられます。それを親鸞聖人は摂取不捨の真言、真実の不思議な、御言葉とお示しになります。
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