ekou
line

熊本県長洲町安正寺

エコウ6月号第318号
2002年6月1日発行

本願の功徳は身の内外に満ち満てり

 

 本願は弥陀の本願。本願は根本の願。根本なる弥陀。一切の中に変わる事なく、いわゆる不変異。全てが異なる事なく、変わる事なく、不顛倒。逆転する事なく、常恒。常に恒に、正道なる働き。それを本願と言う。その本願を他力本願と言い、一切世間の人々の知恵才覚とを区別して、他力本願と言い慣わして来たものの、やはりその心が一般に伝えられていない事が、この度、またはっきりして来ました。つい先日。朝日新聞に掲載された、オリンパスの広告の文章に「他力本願から抜け出そう」と、ありました。かって、農林大臣が「親鸞の他力本願ではだめだ」と、国会で答弁した事がありましたが、その時は、全国の真宗門徒が、挙って是正意見を出して、離職にまで追い込まれた事がありましたが、今回も本願寺からの提言で、言葉の真意を深く理解せずに、一般的理解の上で表現した事で、今後どうするかは、社内で協議中と、あったが、今日なお、他力本願の意味理解は、満たされていない事実があります。
 他力本願と言い、本願他力と言うも、人間の自力我就による、小さな世界に閉じこもって考える小さな知恵を離れた、十方衆生を両眼の中に入れて見る、智恵の世界からの、決意こそ、本願と言う誓いであって、もしも抜け出そうと言うものであれば、それは小さな我執の殻からの脱出でなければならない。脱出した世界こそ、本願他力の世界であって、本願他力の世界からの脱出こそ、永遠なる黒闇、地獄の様相を呈する社会の流転相となり、際限なく悪道を展開して行く事となる。
 本願の大道としてお話しを進めてまいりましたのは、流転の道しか持ち合わせのない人間の分別の中に、永遠真実なる精神に出会って、三悪道を抜け出して、光明の広海に浮かぶ、信心の智慧に依る、慶びの人生を送って頂きたいと願うほかにないからです。
 信心の智慧。智慧の念仏と親鸞聖人は教えられます。信心は智慧ですから、人が持つ信心ではありません。智慧は知恵とは違いますね。文字を良く見て下さい。知恵は限られた個人的見解にすぎません。その知恵を百万集めて見ても、一億には、程遠いものです。お経の中に、
「遍覆三千大千世界」と言うお言葉がありますが、全宇宙を覆い尽くす程の精神。それは、生きとし生きる全ての生命の中に働き続ける、壽の精神、それを本願と申します。その本願こそ、生命ある物の根源であり、畢竟依。それ無くしては、存立不能。いわゆる、安心立命は不可能でしょう。他力と言うは如来を表します。他力本願は、如来の根本精神を表します。他力と言い、本願と言い、如来と言うも、すべて衆生、人と人との中にあって、関係を完全に成立せしめ、一人一人を独立尊立せしめ、一切を敬愛する能力を、回向して下さる物であります。
 その回向の現実が、阿弥陀仏の本尊を前にしてお花を上げ、お明かりを灯し、お焼香をし、御佛飯を御備えし、御正信偈を勤め、念仏合掌して、精神の故郷に帰る時こそ、人間誕生の使命完了の時であり、往生実現の時であります。
 そこに初めて、過去、未来、現在、の三世が完了し、タイムマシーンを通して、自由無碍なる生活が与えられます。
 時間、空間、人間の中にある者として、その間的関係の成就により、融通無碍なる精神界を受領し、唐の善導大師が、信心成就の者、心既に浄土に居す。と表されましたように、それを受けて、親鸞聖人は、現生正定衆の真宗の世界を開いて下さいました。本願の世界に帰入すれば、本願の働きの中に抱かれて、人間成就の一日一日を全うし、そのままで大慈大悲の精神のなかに生かされている事実を、濁世の中で、清浄なる、荘厳された、御仏壇[御内佛]を頂き、お花をあげ、お佛飯をお備えし、お明かりを灯し、合掌念仏すれば、浄土の功徳が、身一杯に沁み通り、不可称、不可説、不可思議の功徳は十方に満ち満ちてきます。