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熊本県長洲町安正寺
エコウ5月号第317号
2002年5月1日発行
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本願の言説は智慧と慈悲との全業力
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五月雨と五月晴れ。共に回向の自然法。春も夏も秋も、四季それぞれに自然の法則によって恵まれているものと、素直に頂いて来た東洋の歴史の中に、西洋の合理的、科学的知識によって、冬に抗して夏を。夏に抗して冬を齎さんとして、人工的にエネルギーの生産と消費の拡大により、自然の大法を変化せしめつつありますが、人間の知識が、我見による知識であるかぎり、一切大衆の歓喜を齎すものとは、なりえません。
それは既に、如来によって自然法による正道が開示されてあって、その法に帰依し、信順するところに、至るべき彼岸の世界が来現し、人々に慶びの日常を与えずにおかないものであります。それを、大無量壽経下卷に十八願成就の文に、「聞其名号信心歓喜」(もんごみょうごうしんじんかんぎ)と、示されてあります。
其の名号とは、本願の名号と言う事で、本願を表わし、本願の働きの名であって、本願は人間の一切の苦悩を、抜本的に解決し終えた法則を表わしております。
名は因の利益、号は果の利益。名号は因と果の利益を完全に与えて下さいます。因と果とは、いつでもどこでもと言う事で、御利益の中の生活を表わしています。
それは、如来の智慧の中の日暮しを言います。名号は「南無阿弥陀仏」。如来の衆生への回施。蓮如上人の、お文にもありますが、「大無量壽経」に「令諸衆生功徳成就」リョーショ、シュジョウ、クドクジョウジュ。とあります。
如来は衆生を救う為に、救いの働き其のものとなられました。それを如来と申し上げます。
如は眞如、真実の働き。真実の働き其の物と共に生きる道が、お念仏です。如来を前に、合掌礼拝し、み名を称える。その、み名に如来の智慧と功徳が込められて、その智慧と功徳が余すところ無く、念仏する人に与えられます。実は如来が念仏する人となって、其の人の中に如来の功徳の全体を成就して下さいます。その証しを、信心と表わされます。それを念仏者と申します。歎異抄に、念仏者、無碍の一道と表わされます。自因自果。仏陀の教は、平等に一人一人に絶対の自因自果の行業を与えられます。
念仏は如来の清浄心と、大悲心と、大願業力によって成就されたものですから、念仏する人の中に如来ましまして、働いて下さるので、悪魔も、悪鬼も、天魔も、寄りつく事も出来ずに無碍の一道を歩く事が出来るのであります。
南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ 「親鸞和讃」
お念仏申す事は、生きる命の根幹を表わして、余に心を乱さない事を表わします。つまり如来の真実心を基幹として生きる事を表わします。そこに見出されるのは、人間の自我を中心とした、利己心と我愛の心、それは、利害損得を分別し、敵と見方に選別し、排他のグループ行動を起し、大きくは戦争へと連なって行き、現在のパレスチナ、イスラム、アメリカ、ソビエト、等の果てしない殺戮闘争の現状にあり、解決の糸口は、見えて来ません。
;目には目を;は、敵対認識による論理であって、煩悩生成の原理と、仏陀は教示されます。十方世界の無量の諸佛が賛嘆して止まないもの、それが本願十七願に揚げられる、諸仏称名の願と称される、「南無阿弥陀仏」を聞き称え認識する、お念仏の道であります。
念仏は、人間精神の根幹にある、無量壽の法源、阿弥陀の本願力、シャクテイ、{他力} {仏力} {回向力}が働いて、智慧の働きにより無限の進路を過たず、慈悲の働きにより、現実の苦難を乗り越える、静慮と行動とが与えられます。
本願に示される一、一、の佛言は、佛智と正道を、一人一人に必ず施与せずにおきません。
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