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熊本県長洲町安正寺
エコウ4月号第316号
2002年4月1日発行
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法界の師の前に法蔵菩薩の誕生
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真実の道を求めて出家された、国の王子シッタッタ太子。国を統理する者として、基本的理念の確立こそ急務であって、人間の知性、理性を超えた、一切の生命あるものの独立と融和の世界樹立こそが目標でありました。しかし、其の為には従来の人間指向の道を尋ねる事が先決なるにより、あらゆる行法を実践して行かれます。しかしその極まりは、「不可解」の一言に極まります。無限の生命の中の一個人の思慮の到達出来る範囲は、限られた有限の中から出る事はできません。
修行の場を捨てた釈尊は、ニレンジェン河の水に自力分別の執心を洗い流し、ピッパラ樹の下に座して、天上天下の自然界其の物の中に、思慮分別の全体を投入して、聞こえ来る生命の声に聞き入られたのでした。
そこに響いて来たものは、一切の姿形を超えて同じく叫んでいる同一の願い、それは共に信じあい、共に慶びあえる国がほしいと言う心の声でありました。
今日の世界の情勢を考えても、人間の思考と行動とが如何に、其の事に反して推移しているかを思う時悲しまざるを得ません。
それは、一人一人の思考は、其の人の命其のものですから、変え様もありません。自ずから執着が生まれます。執着がある限り、話し合いは成立しません。自ずから武力の行使に走ってしまいます。
世界の現状は、その真っ最中ですね。
国の平和を願われた釈迦牟尼仏陀は、隣国から攻め来る軍隊を阻止する為に、その道に座して、進撃を阻止されたと伝えられていますが、それも三度まで、ついに阻止する事が出来なかったといわれます。
これは業道自然と言われる人間の歴史を表わしますが、悪業は苦業となり、苦業は迷乱となり、迷乱は悪業を生み、邪輪が回り回って、止まる事が出来ない程の激流となっているのですね。それを世尊は暴河と見出されました。荒れ狂う河の流れ、せき止める事は出来ない。せき止める事が出来ても、それを超える暴流がまた生まれくる事は業道自然の道理、しかしそこに生かしている生命そのものの志願は終わる事はない。その志願は統一されて、本願となり、本願は生命となり、暴河の生命と一つになって、悲願となり、働いて止む事なき命となって今現に躍動している事実に出会って、悲願の根源に遡って、その声を静かに聞き入って行かれました。
人間生活の方向を転回させるには、先に生まれた人を尋ね、それを具に受けとって自らの求める方向を確認しなければならない。
これが命の問題である限りなおさらである。
人間の方向は、間的存在である限り、共にという関係の成立が求められる。そして一人一人が共に独立して自在でなければならない。その国こそ自然にして既に在る法国、佛国である。これは世尊が既に信受した世界であった。
そこに見出されたのが法界の師、世自在王如来であった。生きとし生きる者この世に生きる他に生きる場はない。世尊の現実は「世において」の他になかった。何処かにと言う事ではない。今現在の問題。今在る事実の解明こそ急がれねばならない。今目の前にした師、世自在王如来は、独立自在の人なればこそ、全ての存在の根拠を熟知しておられる。問題を尋ね確認しなければならない。それは師のように同じく独立自在なるにはどのような行が必要なのか、行を行とするには、その根底となる心の解明が必要になってくる。心と行。真実国家の樹立。精神と実践。その道を尋ねて行く時、帰って来る声は、汝自身明らかにせよ“と言う声であった。一人一人の意思と決断こそ、最終的なる方向を定める基本となる。其の為にも、御縁を最大限に活用し、探求し実践しなければならない。世尊は、世自在王佛の世界に参入し、法界の心と行を命とする永遠なる壽の人となった。その人の名を「法蔵菩薩」と言う。
菩薩はあらゆる人を我とし、自と他の城壁を破り、入出自在の精神的実践行を探りあて、師に報告し、世に広開する事となった。
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