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熊本県長洲町安正寺

エコウ3月号第315号
2002年3月1日発行

お彼岸は南無阿弥陀仏の国

 

 三月は、お彼岸の月、暑さ寒さに偏らず、穏やかな気候と、生き生きと全てが輝き、咲き薫る自然の営みを仰ぎ見る国民性を、本来人間の本性と御覧になったのが聖徳太子であり、蓮如上人であったと思われます。いずれも世の非常と、人間の差別と困窮を身近に御覧になったればこそ、いよいよその思いは強く、仏説の真実性を明らかにせんと立ちあがられたのでした。
 西の国から伝えられた仏典、それを齎した僧侶、経典と人物、命の書を奉持する人間の崇高なる姿に、人間を調御する教法の存在を確信されたのでした。
 三月二十五日は蓮如上人の御命日ですが、本願寺八代目の門首として、親鸞聖人の顕開された浄土真宗の真実性を極める為に、窮乏の中、只管聖典の探求に精魂を傾けられたのでした。
 親鸞聖人が顕示されたのは、真実の教え、世界に教えは無限に開示されてあります。無限の教の中から選び取る事は、難の中の難といわなければなりません。
 如何にして真実性を見出すか、それは、人間性確立を先ず始めとして、歓喜平等の国家体制の実現を目指す教法の発見こそ要点であると言わなければなりません。
 そこに親鸞聖人が聖徳太子の、十七条憲法に仏法が仰がれている事を見抜かれて、その精神は何処から来ているかと、尋ねてゆかれた所に、法然上人の選択本願のみ教に値遇されたのでした。
 本願は願の根本、一切の願の本。抜本的願海の素、それをもって一切の願が成立する行の発見、実はそこに本願がありました。
 聖徳太子の仏法は、仏心、仏土の顕現にありました。
 その志願は親鸞聖人の仏心に受け継がれてゆきます。善導大師のお示しに、九十五種世を汚す、唯佛一道清く居ます。九十五種と言うは、
一切の哲学思想を表わします。唯佛一道清く居ます。とは、本願のみ教えは、他との一切の対立を超え、一切を平等に成立せしめ、真実の法の中で尊重し、真実の法を念じ続ける生活実践そこに本願念仏の教えを信受されたのが、親鸞聖人の浄土真宗開顕でありました。
 真実の教をあらわさば、即ち、大無量壽経、是なり。大無量壽経は、本願を説き、本願の行である念仏が説かれ、人をして、本願の行に参加せしめ、本願の心の理解へと導いて行く働き有る事を体得なさったのでありました。
 その事を、親鸞聖人は、法然上人に出逢い、本願念仏の法を信受した心を、雑行を棄てて本願に帰す。と宣言していらっしゃいます。
 雑行と言うのは,個人的な判断による道を言います。どんなにそれが崇高な道であっても、我による判断である限り、それをその人は絶対視するからです。絶対視する限り、それは矮小化され、共有する事の出来ない孤立した世界を実現し、自他共に離散して、人間の命を共に奪って行きます。
 人間の命は、本願によって成り立っています。本願の心は、一心に信じきって、共に慶び会える世界を実現したいと言う事の外にありません。神の言葉を信じ守らなかったアダムとイブによって、苦界に放擲されたのが、人類だと、キリストは教へます。
 仏陀は自らの判断と行動によっていよいよ苦界を作り上げて行くと教へます。
 自業自得、因果応報、自らの存在は自らの業縁によって将来された果報であって、動かし難い現実であります。しかしそこに弥陀の本願が働いています。一心清浄なる光明の世界あり。名づけて、安楽国。その国の住人、南無阿弥陀仏の心と命と働きを持って一切の世界を瞬時に駆け巡っている。だから、インドの天親菩薩は、お釈迦様、貴方のみ教えによって十方世界に満ち満ちる南無阿弥陀仏の心と命の国である、安楽国の働きの中にある事を頂き、共に一緒に阿弥陀仏が成就された国の働きと形成を仰ぎ、味わい、阿弥陀の本願の一つ一つを頂き、その本願に随い歩ませて頂きます。と敬白し、今日の生活環境の一つ一つを吟味して行かれたのでありました