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熊本県長洲町安正寺

エコウ2月号第314号
2002年2月1日発行

涅槃のイノチは願、願のイノチは壽

 

 二月は釈尊涅槃会と共に聖徳太子の御明日を頂く月で、仏陀の教に遇い、真実道の証しに参画させて頂く仏教徒として、疎かに出来ない月でもあります。釈尊八十年の生涯は、人間確立と、生活生命の世界の顕彰にありました。
 当時のインドは、バラモンの階級性厳しい制度の中に、神への犠牲をしいられる、隷属的な民衆の存在は、今尚続くアフガンの状態にも似て、貧富の差激しい人々の暮らしの中に、生きると言う事の意味おも知らず、ただ明け暮れる日常の姿に、命の底から湧き上がる願いに動かされて、出家求道の釈尊の旅が始まりました。
 そこに、すでに、本願が働き出てありました。釈尊の再誕とも仰がれる人、それは日本の聖徳太子であります。階級と部族の闘争に明け暮れる中にあって、右往左往、命の保証のない中での民衆の姿に苦悩された太子は、和国の実現に向かって志願されました。
 釈尊も太子も、我、人、共に平等に、光明界における人生確立に、身をもって歩まれた方でした。
 そこに先ず、解明しなければならなかったのは、人々の住んでいる世界と、全ての人が願い求める究極の世界の発見にありました。
 釈尊は伝統的求道の道を体験されます。そこには、個人的サトリはあっても、皆同じく確実にサトリ得る道ではありませんでした。そこから、ただ一人、世界と人間の探求に命をかけて行かれます。生の中にあるもの、それは老、病、死。時あって出る物にあらずして、即今唯今にその因あり。若の中に老あり。健の中に病あり。生の中に死あり。因は自にあって、他に因はない。ここに一人一人の体別の世界が存在する。独生、独死、独去、独来。人生は畢竟一人の自覚から出発する。自覚といっても自身で自身を見ることは出来ない。出来ると思う人が殆どである。その相は「自是他非」自身を賞賛し他を偏頗する。どちらも表に現せば憎悪となり、嫌悪となり、濁世を実現する。はたしてその見解は真なりと言えるか。思索を深く重ねて行けば、未了。到達点は深い無明の世界に至る。無明から出発して久しい人間界。それを包む宇宙の命、天も地も空間も平等に一切を包み生かして淀む事は無い。その命の心を尋ねて行けば、永遠なる穢れ無き清らなる壽を感得する。その壽は遥かに遠く今に至っている。
 その心は深い悲しみと憐れみを持ち、自身の中に今、湧出せんとする胎動を受用して、釈尊は菩提樹の下に浄座したもうた。
 久遠の歴史を通して、今我の中に働くこの心、その歴史をたどりもとむれば、一人の国王にたどりつく。国王は国民を安らかに、あらしむる任あり。一切を安らかならしむるには、身自ら安心の世界を体得しなければならない。求むれば師あり道あり。求道は、道その物の発動である。道は人の上にある。大地と一つになって天地一体の身をもって座す、世自在王如来の前にひざまずく。如来は国王の心を見通して、世界の諸相を説かれる。正あり邪あり。真あり偽あり。苦あり樂あり。何れも縁によって生まれ、縁によって滅す。移り変わる無常の世界にあって、常に歓喜に住する世界は無きか。
 それは、いかなる穢悪にも災いされず、全てを清浄にして、健全なる歓喜の生をまっとうする命の完成こそ必要である。
 我人共に生き合える命。
 我人共に輝き合える命。
 我人共に喜び合える命。
 我人共に誉め合える命。この命の完成こそ願の中の願。この願の他に願はない。しかしそこには、まだその実を見ない。国王は命を思惟し命の根源にさかのぼって、願である命に出会った時、願である命の壽に出会う事ができた。
 その壽はあらゆるものの上にあり、現に働き続けている壽。その壽を無量壽と言い、その働きを無量光と言う。命に願があった。命は願の働きの上にある。壽なる働きの願をはっきりと聞き開くところに命の使命があり、命の完成があり、壽と命の一致した人間生活の完成があり、ともに喜び合える彼岸の世界があります。