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熊本県長洲町安正寺

エコウ8月号第475号
2015年8月1日発行

真宗興隆

光明名号信一念 G

 八月はお盆、仏様のお心を戴き、人間の生き方を尋ね、正しい生活のリズムを取り戻す大事な時を戴いているんですね。そしてまた戦後七十年と言うだいじな時でもあります。いつもは、御供養も五十回忌で終わっていましたが、下沖洲、浜村良幸様は率先して同家の戦没者の七十回忌をお勤めになりました。日本の首相の談話が世界の注目の的になっていますが、憲法九条の問題と共に、仏様の御心を大事に戴いている私たちは特に仏様にお尋ねして人間としての道を外さないようにして心を掛けなければなりません。浄土真宗の世界を明らかにして下さった親鸞聖人は、浄土こそ真宗であるとお示しになりました。浄土は仏様の世界。二つに分ければ、阿弥陀仏の世界と諸仏の世界となりますが、仏様としては変わりはありません。でも大きく変わっているものがあります。それは本願に違いがあるんです。それぞれ佛様には本願があります。大体佛様になるにはまず菩薩様となって、佛様になるのが順序となっています。私達は凡夫。聖徳太子の十七条憲法の中に我等は凡夫と言う言葉があります。金子先生が、「凡夫とは、愛妻愛子惜身借命」とおっしゃいました。妻を愛し子を愛し、身が惜しいイノチが惜しいと煩悩に明け暮れる生活。でも今日。愛情余って憎しみに変わり評論家の立花隆氏が述べられる様に今日人類は精神的に壊れ始めたのでは無いかと危惧されると述懐しておられたのですが、日本仏教はすでに鎌倉時代、末法世界の当来を実感しそこに逢って尚正法を維持する道やあると身を持って探究した方々が法然上人を始めとして、道元。日蓮。親鸞の高僧があります。三高僧共一致している相は一つの行を捉えたと言う事には変わりはありませんが、唯親鸞聖人に於いて違っているのは本願に帰すと言う一事なんです。道元禅師は座禅の行を選び取り、日連聖人は題目の一行を選び取られた。それぞれ選び取られたという一事については変わりありませんが、親鸞聖人に於いて選び取られたのは、阿弥陀如来様が本願に於いて、この一つを選び取って欲しいという、仏様の選びに従われたと言う一事に大きな違いがあります。凡夫自力の選択か、佛様の選択に従う選びかの違いなんですね。法然上人の浄土宗開顕の基になっているのは、選択本願念仏にあります。弥陀の本願は、真実の道理に疎く、真実の道をも知らず自らも迷い、他をも迷わせ、自他ともに煩悩妄念の虜になって相争いあい排斥しあい、明日への道を見失っている今日、聖徳太子は日本にお生まれになったお釈迦様とも称されたように、日域大乗相応地と、お示しになった様に、日本人の心の奥底に働き続けている精神は、弥陀の本願に示される、十方衆生一人も漏らさず、触光柔軟(ソッコウニュウナン)真実の教えに逢って、明るい穏やかな生活を願い続けていらっしゃいますのが阿弥陀仏の願いであり御働きであります。浄土の三部経は、大無量壽経。観無量壽経。阿弥陀経。略して大経。観経。小経。大経は阿弥陀仏の本願とその世界を。観経はその阿弥陀仏を観る方法を。小経は十方諸仏が御念仏一つをお勧めになっていらっしゃいます。御念仏の心を聞かして戴き、佛様の御供養にあずかる場所が聞法の道場、お寺の本堂なんですね。