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熊本県長洲町安正寺

エコウ6月号第473号
2015年6月1日発行

真宗興隆

光明名号信一念 E

 六月六日は、清沢満之師の御命日ですね。明治の廃仏毀釈の時期にあって、浄土真宗の親鸞の教えを、身を通して世界の思想を見つめながら、個としての人間を成就する仏教として開示なさった先生で、現代真宗仏教の基礎を築かれた先生でしたね。安正寺の先代隈部慈明は大乗起信論。浄土文類聚抄講義の書を著し、金子。曽我兩先生と共に、清沢先生の発行された精神界を継続執筆した仲間の一人でしたが、病気の為、金子先生が「隈部師を悼む」の号を持って廃刊となった御縁深い先生で、私も清沢先生の書は、ずっと拝読させて戴いた者の一人で、心を一つにする者であり、親鸞聖人を現代の人間に示して下さった先生であると戴いています。我が信念と言う書もありますが、正信念仏を表す言葉なんですね。如来は、我を我たらしめる根本本体なり。とお示しになり、如来無くしては、吾が我にならない。吾が我と思っても、その吾は架空の存在で実存の我を観念の幻想体して、空虚な存在、空しく過ぎ行く生活として、実質の無い千の風になってしまう他に無いでしょう。親鸞におきては、と言う、自身を建立する道こそ、浄土真宗、親鸞聖人の教法であります。世を照らす光。それは世に光を注ぎ、道を照らし導く働きとしての智慧こそ浄土の真宗であるとして、親鸞聖人は九十年の生涯を歩き続けられました。南無阿弥陀仏は本願の名号と示されます。本願は総ての生命の本義を表します。本義無くして存在は保たれません。生命の存続は本義の然らしめる処。誠心誠意。寸時も休まず、生かしめる働きを根本本体、根本義、南無阿弥陀仏の義を表します。蓮如上人が、南無阿弥陀仏の義(イワレ)を聞かずばいたずら事なりとお諭しになります。聖徳太子が佛法僧の三宝に依らない限り人間世界はまともになれないとお示しになります。何故ならば総て人間は、自分を善しとし、他人を悪しとします。国に於いても然り、国際会議も、最終書面が表記されないと言う結末で終わり。長い期間の話し合いも決着がつかないまんま、徒労に終わります。十方衆生平等に向き合う為には、我を良しとする執着を棄てなければ、平等なる地平は開かれてきません。平等なる地平とは何か。評論家の立花隆氏が親鸞の南無阿弥陀仏は普遍的真理である。と論じています。それは一切の存在を本願力の中の存在とし、本願力に立たしめる原動力となる処に念仏がある。その念仏は南無阿弥陀仏であり。願力であり、仏力であり、生命力であり、総ての精神の方向性を示し、その方向に必ず向かわしめて下さる原動力であり、平等に立たしめて下さる地平。其処に、機。法。二種の深信があり。一人一人を如来たらしめて下さるのです。