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熊本県長洲町安正寺

エコウ2月号第469号
2015年2月1日発行

真宗興隆

光明名号信一念 A

 二月は涅槃会、釈尊八十年の生涯を終え、自ら説き得た涅槃の世界へと旅立ち三千年、今に煩悩の賊に苦悩し続ける衆生の為に説法し続けて下さっています。今を去る七百五十五年前の二月九日未明親鸞聖人は夢の中で「弥陀の本願信ずべし、本願信ずる人は皆、摂取不捨の利益にて、無上覚をばさとるなり」の御唄を感得なさって、煩悩のもとになる、妄相顛倒の悲しみを胸深く戴かれたのです。浅い知識の分別で勝手に自己判断し、真実道を目指している若き人物を無残に抹殺する人知の浅はかさのかなしみを、いやと言う程御感じになった聖人は、五十年も前の二月九日の事が忘れられなかったのでしょう、松虫鈴虫の斬首処刑の場面に接し、川原に飛んだ首の口は、紛れもなく、御念仏を唱えていた両人の姿を、思い起こされていたのです。イスラムに問い直される日本。世界は今、日本を注目しています。真に平和国家として世界に生きるとは、何処に道はある。大和の国、と名のられた聖徳太子。十七条憲法の第一条に「以和為貴」和らぎを以て貴しと為す。絶対平和主義に立って、その為に「仏、法、僧」を篤く敬うべきである。と示し、そのいわれは、仏法に依らずして何を以て、人間の間違いを正しくする術があるだろうか。と憲法にうたっておられます。お釈迦様はインドの皇太子。聖徳太子は日本の皇太子、初めて日本の憲法を作成。文化、建築、工業、医療あらゆる政策面に仏法を取り入れ、豊かな日本国家建設に取り組まれた太子の活動の中にお釈迦様の遺志を受け継がれた日本の仏陀、お釈迦様の再来として、親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主聖徳王」と詠い聖徳太子に関する和讃は二百首にも及んでいます。日本のお釈迦様と尊び、中国からもお釈迦様の生まれ替わりの太子様と驚き、お会いしたいと渡航してきた高僧もありました。西行法師は 1190年二月十六日に七十三歳で生涯を終えてますが願い通り、涅槃会、お釈迦様の入涅槃の翌日でした。願いのその歌に、「願はくは桜のもとにて我死なんその如月の望月の頃」釈尊の説教ひとえに弥陀の本願を説かんが為であったと言うのが親鸞聖人の眼目でありました。法然上人にお会いして受け賜った教えは、何より先に御念仏申せ、と言う事でした。比叡山においての最後の修業は、常行三昧でしたから御念仏申すと言う事は当たり前でありましたから別に疑問はありませんが、今現在の実証として、確たる物が身に響いて来ない。法然上人との聴聞対話が休む事なく百日続けられたと、奥様惠信尼公のお手紙に記されています。法然上人は「偏依善導」と言って、善導大師の御説に依って真実の仏道が法然上人の上に開顯されたのです。「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行くも止まるも座るも臥すも、時間の隔たりや短さを超えて何時も忘れる事が無かったら、これを正定の業と言うのである。阿弥陀仏の本願に願われている事に真っ向から従う事になるからである。」と言う善導大師の命を懸けたお言葉に出合い得た法然上人は、百涙千条。嬉し涙が止まらなかった。と述懐されています。これは、善導大師の観経疏に示される、三心釋。自己自身の心中に、純粋に自他平等の為の真心が有るだろうか、と言う疑問。それは、阿弥陀如来の本願真実の至心に出合われた善導大師の慚愧。人間の誠意は自己保全の枠を出ない、虚仮雑毒を内に含む見かけの善に過ぎない、慚愧。懺悔の他にないと言う自己否定。しかしそれだけでは教えにならない。真実の行信。行は念仏。信は本願(阿弥陀仏の願心)阿弥陀仏の心身が私と一体になって下さった事実が、御念仏だったのです。名号は智慧として心を照らす。