光明名号信一念 @

 新しい年、新しい一日、いつも変りなく、新しい今日を戴いて歩ませて戴く喜びは、親鸞聖人のみ教えに逢えた慶びに他ありません。過去久遠の闇を晴らし、永遠なる現在と当来の浄土の働きに導かれて、今日ある事の尊さを味あわせて戴く慶びも、何にたとえようもありません。昨年は辿り着く処第十八願と言うテーマで歩ませて戴きましたが、その第十八願は親鸞聖人が示された、七人の高僧が共に身と心を持って歩まれたみ教えの通り、それは其の儘釈迦牟尼世尊の四十五年の説法の神髄を顕わしています。それを親鸞聖人の生涯の書。「教、行、信証」に詳しく述べて戴いていますが、特に浄土三部経は如来直説と仰がれる様に、釈尊自ら説き得て慶び生きられた証言の直説であります。釈迦牟尼仏陀が説き示された教法は、十方微塵世界に満ち満ちている一切衆生、一人も漏らさず、完全に救いとる、働きであればこそ微に入り細にわたっての教えであればこそ、八万四千の教えに広がって参りました。それを七人の高僧が広大なる仏道を、難易に分かち、勝劣に分かち、如何なる状況、如何なる時代、能力の如何を問わず、平等に、清浄に、働き続ける生命の本体。法性、法身、の行信を体とした、第十八願は十方衆生に対する法爾自然の回向の事実を表明しています。第十八願に逢い得た事実には如来の現行として、大悲回向の真信が凡夫の底心に徹到して、如来の真実が届けられて絶対の真実に目覚めると同時に、自己の虚偽性にきずかされ、愈々真実に出遭えた慶びと共に、真実ならざるに真実を回向し続ける如来の回向の事実を光である智慧を賜り命である慈悲に護られ有りの儘、絶対自由の身を今日に授けられるものであります。其の現行として、御念仏があります。現行と言うのは、如来真実の行として釈尊自身が本来の行として確かめ讃嘆なさった行であり、その行から本願の信を得られ、その信行によって讃嘆しあってある、仏仏相念の事実を身を持って大無量壽経下巻に説き述べて下さった事を重く観て、本願の行信を念仏伝承の事実として見出され、願力仏力の確かな実態を確認されて本願の宗教、浄土真宗を本書「教行信証」六巻に纏めて、十方世界に公表されたのであります。釈尊が阿弥陀経に説かれた様に、難知、難信の教で邪見驕慢の混沌とした見解の中に迷い込んでいる衆生には、了解する限界を超えたものでこの事は、十方世界の無量の諸仏が事実を確認し讃嘆し、十方世界の衆生に対して御念仏の光明寿命の尊大なる事実を声を揃えて説法し懇ろにお勧め下さってある事が述べられてあります。親鸞聖人は阿弥陀経の事実を身を持って確認し自力我就の妄念に取り囲まれ抜け出し得ない実情こそ、衆生が真実に目覚める機縁を阻害している事実に、如来大悲の働きが注がれている基盤を見出されたのでありました。阿弥陀仏の働きは「南無阿弥陀仏」と言う名に一切が凝縮されてあります。五劫思惟の本願も、永劫にわたる行業による功徳も一切含まれていてあればこそ、念仏に勝る善行はありません。一切の功徳に勝れた行法であればこそ、如何なる善行も及びません。その念仏の行法を一切諸仏が讃嘆されると同時に、則、護念して下さってあります。それは諸仏と阿弥陀仏との約束の上であります。仏様だけではありません。諸々の天地に満てる悪鬼神も阿弥陀如来の本願の真実性に触れ、求めて念仏者を護る事に専念する事を約束している事が諸経に記されてあります。親鸞聖人の言葉を記された「歎異抄」に念仏者は無碍の一道。天神地祇も敬伏し。魔界外道も障碍する事なし、罪悪も業報を引かず。諸善も及ばず、無碍なる一道なり。と