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熊本県長洲町安正寺

エコウ11月号第466号
2014年11月1日発行

真宗興隆

たどり着く処 第十八願 J

 御霜月十一月は京都本山を始めとして全国浄土真宗の寺院に於いて、親鸞聖人御正忌報恩講法要が勤修され、聖人の恩徳を讃え、真実の教行信証として明確に御教示下さった事を身をもって頂戴しなければならない使命が御縁に遇う一人一人の上に願はれている事をきずかせて頂かなければ、今日ある事の意味が失われてまいります。「唯念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とよき人法然上人のおおせをかぶりて「信ずるほかに別の子細なきなり」と、聖人の御言葉を、身近に承った唯円坊が歎異抄のなかに大事に書き残して下さっていますが、御師匠法然上人の御言葉は其の侭善導大師の御言葉なんですね。同じ歎異抄の中に、親鸞聖人の御言葉として、弥陀の本願の真実が釈尊のみ教えとして善導大師に伝えられ、善導大師の真実が法然上人に受け継ぎ伝えられて其の侭親鸞聖人の行信として成就された事実に、親鸞聖人は、本願成就の事実を感得なさったのでありましょう。教行信証の各巻の頭に、各本願の名を揚げていらっしゃいます様に、一つとして、もしは因もしは果、何れにしろ、皆阿弥陀仏の因であり果で無い物は無い、総て阿弥陀佛の本願の因であり果として成就していて、単なる物語とか観念の中の相念では無く成就された真実である事を、仏教の歴史を身をもって受け継ぎ伝えられて三国の高僧を揚げ、その一、一、の高僧の新しく身に体験なさった著作を掲げて、それを文類として掲げ、その一つ一つを聖人自身受け保ちながらその真実を完全に本願真実として戴かれた所に親鸞聖人の、佛性、涅槃、如来、真実と結実する涅槃経の確信に到達なさると同時に仏法の真髄、独生、独死、独去、独来、独尊の生命を本願の生命として開顕なさった所に親鸞聖人の浄土真宗」と宣言なさった深い義があります。特に「弥陀五劫思惟の本願をよくよく案ずれば偏に親鸞一人が為なりけり」と、結ばれた所に、信の確立があります。唯念仏せよ。の呼びかけは、第十八願の心と善導大師は戴かれましたが、それを法然上人は、念仏申す他に真実の行はなし得ない身と感得なさったのが、法華経を中心とする諸行では、今日只今の現実に於いては、一一の行果は何処までも未来を望む他に無い。とすれば、現実に於いて真実に直結するのは本願に誓われた行に従う他に方法は無い所に、既に行の道が結ばれてあった事の驚き、三学の器に在らざる法然の為に、既に真実の行が誓われてあった教法に善導大師の観経疏の文に出遭い、百涙千丈、感激のあまり涙が止まらなかったと、法然上人自身が書の上に残していらっしゃいます。親鸞聖人はその心を自身に受け取って、何れの行も及びがたき身に、真実の行信成就としての、本願の名号こそ、真実の行である事は明白である。それは真実の信、成就なればこそ言えるもので、如何なる行を為し得ても、その行は、凡夫の行であれば、煩悩我就雑毒の上に建てられた行であれば真実の行とは言えず、善導大師が示される様に、虚仮雑毒の行と言われてとても真実の行とは言えない。と示されます。聖人一流の御勧化の趣は信心をもってほんとせられ候。親鸞聖人のお勧めの信心は、凡夫自力の信心では無くて、蓮如上人が仰せられます。「信心と云う文字を、まことの心と読む上は、凡夫自力の心に非ず、全くこれ佛心なり。信心は凡夫の内心に働きかける如来本願の至心の働き、その働きに触れた感動を他力の信心と表し、何時でも働き続けて下さって在ればこそ、常に忘れて、忙しい忙しいの連続の生活の中に、夜昼常に護り続けて下さって在る働きこそ、本願成就の南無阿弥陀仏であり、そこに第十八願の現事実があります。