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熊本県長洲町安正寺

エコウ9月号第464号
2014年9月1日発行

真宗興隆

たどり着く処 第十八願 H

 九月は秋の御彼岸、実りの秋を控えて、自然の心を戴き、先達の苦労を偲びながら、現在の苦労を乗り越えて行く力を戴く、感謝と希望の心に立つ大事な御仏事、御彼岸会法要なんですね。でもこのころの気候は、測候所始まって以来初めてと言う、あまりにも酷い風雨に驚くばかりで、自然の力には手の施しようもありません。でも自然からの呼びかけに応える所に、人間の責任があります。自然の一切を創造された神は、最後に神に似せて人を創り賜うた。と言われますが、創られた人は、創造主の神の願いを聞くべきでしょう。神は隣人を愛せよと願う。隣人の我を愛しない彼は、神に反する彼だから、彼を抹殺する我は、神の願いに従う我は神の味方。天国に生まれるは必然。自ら自爆して彼を葬ると云う、反転の道理を作り出す処に人間の分別が如何に?倒〈テントウ〉の上に立っているかと云う現実に目を覚ます事が如何に大事であるかと云う事を呼び掛けて下さったのが教主釈尊の八十年に及ぶ伝道の御一生でありました。人は如何にあるべきか。が、釈尊生涯の大問題であったのです。そしてその大問題を、完全に達成されたのが、釈尊が如来である事の証明であります。如来の如は、真実の世界を表し、来は、人として表現し来られたと云う事です。仏様の世界に二種の世界があります。一つは諸仏の世界。二つには、阿弥陀仏の世界。諸仏の世界は、それぞれの願いを成就して佛となり、その世界の指導者となって下さっている世界なんです。阿弥陀仏の世界は、因位法蔵菩薩の時、四十八の願いを立てられました。これを四十八願と言っていますが、これは法蔵菩薩自身の願いであって、決して他人の為の願ではありません。四十八の願いが何故建てられたのかと言えば、十方世界の善悪、諸天善人の善悪。全て相対的善悪で、其処から対立的グループが表われ争いが生まれ、その解決は永遠に尾を引き止まる事は不可能である事は現在の国際状況が証明しています。此処に別願が生まれる所以(ユエン)があります。別願と云うのは、誰も建てた事の無い、そのひと一人だけの願いで誰も建てる事も、達成する事も出来ない願を建て、成就して下さった所に別願と言われる第十八願があります。辿り着く処第十八願と題しましたのは此のことなんです。四十八の願全体は、どうしても助かり得ない私を、必ず救うと立ち上がられたのであって、こうして欲しいと私に願われたのはなかったのです。其処に唯一つ特別な願いがあります。それが第十八願です。設我得佛十方衆生至心信楽欲生我国 唯除五逆誹謗正法 セツガトクブツジッポウシュジョウシシンシンギョウヨクショウガコク ユイジョゴギャクヒホウショウボウ 設我得佛 私が佛になった時、十方衆生が一人も漏らさず全ての人々が一心に疑い無く喜んで、私の国に生まれたいと願って私の事を念じて呉れるなら、もし生まれられないと云う事があったら私は佛とは名告れない。と誓われたのです。どうです、一心になれますか、疑い無く喜んで阿弥陀様の御浄土に生まれたいと思いますか、冷や飯食っても娑婆に居りたいと願って、仏様の世界なんて思いも及ばない遠い遠い世界の事で、聞きたくないと耳を塞ぎ、観たくないと目を閉じて自分の分別の世界に閉じこもって、暗い世界は一向に開かれてきません。凡夫の自性は百も承知。いかなる衆生も漏らさず救うと誓った身。この身の精神と実践。信と行を南無阿弥陀仏の名に込めて、一人も漏らさず、十方衆生の身と一つになって、信と行が、南無阿弥陀仏の名となって今現に一人一人と?に生きて居て下さって在るのが阿弥陀如来の本願力なんです。