

熊本県長洲町安正寺
エコウ7月号第462号
2014年7月1日発行
真宗興隆
たどり着く処 第十八願 F
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今年も早、半年も過ぎ、後半の月七月を迎えましたね。壱月の下旬尊いイノチに生かされて居る事に出逢い、人生の尊さにあらためて築かされて半年。如来のみ教えの確かさを身に深く戴く事が出来ました。首筋、肩、足腰、指のシビレ、等。残っておりますが、地方紙連載、五木寛之氏の「親鸞」の中で、晩年の聖人も左手の指のシビレが在ったかのように記されているのを読んで、同年齢の私も左手のシビレを感じながら、聖人の晩年と同じ状態の身を感じながら、暖かい喜びをあじあわして戴いた事でした。年齢と共に感覚が鈍って行く事は当然な事である中で、今日此処に生かされている事は何よりの喜び、そしてまた、仏法の中に生かされている事は何よりの慶び、是に過ぎる事はありません。大無量壽経に御念仏の功徳は大利無上と説かれて在りますが、この上もない御利益を戴いて居りながらそれを知らずに、不足不満ばかりを口にしている事は、阿弥陀様を始めとして、御先祖様の一切の仏様のお力によって生かされ護られている事を知らずに不足不満ばかりの自分勝手な思いの中に自分を沈めてしまっている身に、御恩知らずの自己自身にキズカサレル事ですね。其処に自然に南無阿弥陀仏のお働きが顕れて、南無阿弥陀仏と声に表して下さる御利益があり、自然在りのままの世界がどんなに一切のイノチの全体が私一人の為に働き続けて下さっている現実にきずかして戴かなければなりません。昨日と云うも、今日と言うも、明日と云うも。今の一息の他にありません。今の一息が無ければ、昨日も、今日も、明日もあり得ませんね。その一息が自分の力で、自分の思いで実行されて居りますか。一切は私達の思いや計らいを超えて実現されている物の上に生かされています。如来様のお働きは大慈大悲と表されています。真実を見る目を持たない身に智慧の眼を与え、自分の愚かさを知らずに、何でも知っているかの如き思いで、不足不満をカコッテ自分で苦しみ嘆いている愚かさを悲しんで、ジット堪えて慶びの世界に生れよと、働いて下さって在る仏様の御恩にキズカシテ戴かなければ、自業自得、慶びの世界に出る事はありません。お釈迦様のみ教えが三千年と時を越えて今の私の所まで届けられた事は計り知れない程の御恩が詰まっています。その尊い御教えが今浄土真宗として伝えられているのです。親鸞聖人は、御釈迦様一代の説法の真髄は大無量壽経であり、大無量壽経の真髄は、御念仏であり、御念仏のお心を戴いてほしいと願って九十年の生涯を生きて行かれました。浄土の三部経は大経一巻に纏められます。御念仏南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の真実の願いとその働きを成就して南無阿弥陀仏の声となって下さって一人ひとりの身となって働いて下さって在ります。それを仏様の御呼び声とお示し下さってあります。その御義「オイワレ」を聞かせて戴ければ、仏様のお心の世界に生まれさせて戴く御利益によって、明るい世界が開かれて、仏様と御一緒の御蔭さまの日暮しが始まります。それにはその御心を聞かせて戴く「聞法」が必要になります。唯御仏壇の前に座ってお願いしますと御参りしても、私のお願いだけが中心になって、仏様のお願い、これを「御本願」と言いますが、私達のお願いの前に既に、仏様の方から私達にお願いがあったのです。私の願いを聞いてくれ。これが阿弥陀様の御本願。わが名を称えよ。その御心を聞く。御みのりを聞く。仏法は聴聞に極まります。仏法は置き薬でも効かないヤマイ「迷いや苦しみ悩みの大病に」良く効く、「聞く」薬です。行く先真っ暗な世界が、光明の世界に導かれる浄土が開かれます。 | |