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熊本県長洲町安正寺

エコウ6月号第461号
2014年6月1日発行

真宗興隆

たどり着く処 第十八願 E

 六月、既に麦秋の真っ最中。御田植の準備が本格化して秋を目指し進行中。政治、経済、国際問題、日本では大事な憲法問題。何もかも、お互いに自利を基本にして他利が自利を妨げないか、相方の自利が確保出来るかが大きな問題となれば、完全決着は不可能で、何時でも火種を抱えた国際問題も近くは人間関係も何時でも火種を抱えています。釈尊が悟りを開かれて、かっての身近な、一緒に御城を出て、山で修行に同行した人達で別に暮らしている人達の所に出かけられます。その姿を発見した一人が言います。「おいシッタルタがやって来たぞ。六年間で修行を止めて悟りも開かずに山を降りて行った一貫性のない奴だ。顔も見たくもない。何を言いかけて来ても物を言うな。黙って居て、相手になるな。」確りとした足取りでかっての同行衆の傍に立たれた釈尊が、静かにしっかりとした口調でおっしゃいました。「同行衆よ、世界は火に満ちている。人も、ひとり、ひとりの心の中に火が燃えている。其の火を早く処理しなければ、人生その物が、火の海となって、火の海の中で空しく終わって、尊い人生が生きた事にならず、世に言う永遠の流転を繰りかえし、愈々永遠の苦脳の闇を成就して行く人生であっては、真実の道理に生かされている現状に対して申し訳ないではないか。同行衆よ、聞けよ、我は勝手のシッタルタでは無い、法の真理を体得した智者、如来と成ったのだ。如来の道理は、単なる道理では無い。道理その物が事実となって今現に、お互いを包み懐きとって共に生きて下さっている如来の働きによって我々の現実存在が在るんだよ。小さな我執の分別の濁世に目覚めよ、世の中が暗いと言うが、自分が酷いサングラスを掛けているのを忘れて居るのでは無いのか、心の眼を開けよ、心の眼は欲の目、怒りの目、愚痴の目、の病にかかり、その目を癒すには、清浄なる水で洗うより他に方法は無い。その水を法水と云って如来の言葉に遇う他にない。如来の言葉を「実言」と云って、言葉に遇えば、心が洗われて行く事が解る。その証拠に自分の心の愚かさに驚かされる。洗い出された濁った心の醜さに自分ながらも驚かざるを得ない。それを昔の聞法者が歌っています。聞いて見なんせ真の道をよ。無理な教えじゃないわいな。これはカルと云う御婆さんの歌ですが、おのが分別キッパリ止めて、ミダの思案にマカシャンセ。総てを生かし切って在るのが阿弥陀仏の行信です。阿弥陀仏の行信を南無阿弥陀仏と云う言葉で釈尊は示されます。南無阿弥陀仏の心の全体を隈なく説かれたのが無量壽経なんです。その無量壽経は、観無量壽経と阿弥陀経がありますが、最初の無量壽経が、阿弥陀仏の働きが如何に勝れた物であるかを釈尊自身が確認を通して説いていらっしゃいます。その確かな事を一切の諸佛が讃嘆してとても諸仏の及ぶ事では無い、と讃嘆と共に自らも其の説の確かさを認めざるを得ない事を阿弥陀経に述べていらっしゃいます。力有り、と思っている人には受け入れられないであろうけれども、事実は事実であるから、受け入れられたら安心を得、受け入れられなければ、苦脳の闇に覆われた人生となって行くばかりで暗黒の世界の連続となって、闇からの脱出は永遠に不可能である事を、中国の善導大師がはっきりと述べていらっしゃいます。永遠の過去から今日まで。今日までと云う事は、仏法に遇えた今日までと云う事で、遇って見て始めて、迷いのこの身が知らされたと云う事で、今真実の世界、如来の願力に抱かれて見て初めて、今日の尊さ有難さが知らされ、光りの中の生活が願力の賜であってみれば、聞法の他に道はありません。