ekou
line

熊本県長洲町安正寺

エコウ5月号第460号
2014年5月1日発行

真宗興隆

たどり着く処 第十八願 D

 メイデーにゴールデンウイーク、憲法記念日に子供の日。項目を挙げれば限りが無く、人生のすべてが此処に開かれている。人それぞれに世界を持っている。一人ひとりの人生。身がひとつである様に、他に代わる事は出来ない。此処に仏教の出発がある。天上天下唯我独尊。天にも地にも私は唯一人。独生独死独去独来。一人生まれ独り死し独り去り独り来る。その独り独りに平等に最高のイノチが与えられているのです。それが釈尊の悟りだったのです。ニレンゼンガで心身の汚れを洗い流し、菩提樹の木陰に座して、明けの明星の輝く時に、両手で天と地を指差し、唯一人此処に天地一杯のイノチを受けてイノチの主になれり。と示されました。そのイノチとは、如来を指しています。後に我如来となれり。と宣言していらっしゃいます。大無量壽経には、吾れ当に世に於いて無上尊と為らん。と自らの使命を確認されます。私が力があって悟ったのでは無い、悟らせる法の働きによって悟ったのであってこの世に生きるすべての生有る者、平等にその働きを受けているのであって、個人的なものでは無いのである。平等施一切と表現される様に、全ての生ある物の根源に、真実の生命、如来の功徳が現行されているのであります。そのことを釈尊四十五年間の説法に表されています。平等なる智慧と慈悲。それを光と壽(イノチ)として表されています。それを親鸞聖人は、正信偈の初めに、帰命無量壽如来、南無不可思義光とお示しになりました。其処には、老、少、善、悪、の人を撰ばず。と示されます。現在在る其の侭。無上尊とと言われる、真実如来の功徳の全体が過不足無く平等に働いて下さっているのです。その心を如来の本願と示して説かれたのが、大無量壽経なんです。親鸞聖人が釈尊教説の経典の中から真実の教としての経は此の「大無量壽経」である。と示されます。一切善悪凡夫人の助かる道が説かれ、助かる道と言っても、何かをすれば助かると云うのでは無くて、全てのイノチの中に真実の如来、が働いていらっしゃるのです。真実でない如来なんていらっしゃいませんが、涅槃経には、其の事を、真実を如来と言い、如来を真実と云うと述べられてあります。如来は智慧慈悲円満。円かな智慧と慈悲の総体が如来(タターガーター)して下さっています。私達人生の総てに渉って働いて下さってありますから、その声を聞く事が何より大切な事になってまいります。その声を聞く事無しに考え実行すれば、覿面に闇が待ち構えています。闇が待ち構えていると云うより、闇の中にいる事が分かっていないのです。如何なる智慧者も次の瞬間どうなるのかは実際の処、分からないのです。分かったつもりでいる事を無明煩悩の凡夫と表現されます。そんな中でも何となく日暮しが出来ている様に思われますが、実際は無量無辺の諸仏の方々の大いなる御加護の賜りものである事にきずかねばなりません。其処に報謝の御念仏が説かれているのです。何時も仏様の護念の中に生かされているのです。それは阿弥陀仏の御誓いの中に、どんな不足な事があっても其処に充分な喜びの満足を与える事が出来なかったら南無阿弥陀仏の声は聞こえないだろう。南無阿弥陀仏の声が聞こえる限り、貴方には無上の功徳が働いている筈ですね。如来様の声が聞こえましたか。聞こえない筈がありません。全世界は南無阿弥陀仏の声で充満しているんです。南無阿弥陀仏は、法の名なんです。法は全存在を表します、全存在は南無阿弥陀仏に依って成立しています。その根源を弥陀の本願と言います。本願を信じ、念仏申す処に、真の人間が生まれます。それを往生と云うのです。