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熊本県長洲町安正寺

エコウ12月号第456号
2013年12月1日発行

真宗興隆

往生浄土 K

 一年も早終わり。何時もの事ながら月日の経つのは早いものですね。光陰矢の如し、と。例えられますように、あっと言う間もありません。一生過ぎやすし、とも言われています。長い様で短い人生。経典に人寿百歳。とありますが、何年生きたとしても、百歳なんです。百年は成就を表します。与えられた人生。戴いて生かされる人生。賜りたる人生。この世に人として生まれさせて戴いた相を釈尊は「天上天下唯我独尊」(テンジョウテンゲユイガドクソン)とお示しになりました。天と地。場と空間と人間(ジンカン)環境と世間。唯一人生まれさせて戴いた身なんですが時は末法、場は法界。法界(ホッカイ)は阿弥陀仏のお働きの真っ只中。末法(マッポウ)と言うのは、お釈迦様がお説きになった教えの中で唯一つ間違いなく生活の中で戴く事の出来る道は「聞其名号」(モンゴミョウゴウ)南無阿弥陀佛の御念仏のお謂われを聴かせて戴く所に、即、直ちに、廣大なる功徳利益が心身に回向されて、明信佛智(ミョウシンブッチ)仏様の慈悲と智慧のお働きを身に受けて其のお働きの只中での日暮しが日常生活の営みとなる現状を往生と申します。其処に唯我独尊のお言葉が輝いて来ます。法華経の中でお釈迦様が舎利弗にお説きになります。昔ね、私は大きな願いを立てた。それは私と同じように智慧と慈悲に優れ、永遠のイノチを持って、自他共に慶んで生きる事が出来るように、私と寸分違わない様にしたいと願って今此処に居る。私は今此処に生まれ此処で今佛になったのではない、実は久遠の昔、佛であった。此処のところを、親鸞聖人は「久遠実成阿弥陀佛」と賛嘆され、「釈迦牟尼佛としめしてぞ迦耶城には應現する」と和讃して、お釈迦様は実は阿弥陀様の本願力によってこの世界にお生まれになり、阿弥陀佛の国に生かされる浄土の国の働きの圏内に生かされる尊い身をこそ「独尊」つまり阿弥陀佛のいのちに生かされる尊い身である事に目覚めなさいと言う所に、釈尊一代の説法があります。そして、釈尊が一代掛けて説かねばならなかったのは阿弥陀佛の本願でありました。その事を正信偈に「唯説弥陀本願海」唯弥陀の本願海を説かんが為にこの世にお出ましになったのであると頂かれたんですね。その弥陀の本願のお心を聴かせて戴く時、智慧慈悲方便(チエジヒホウベン)の只中に目覚めて、摂取不捨(セッシュフシャ)の利益を得て、正定聚の位(クライ)に即かせて戴き仏様の候補者に定められて、仏様に成る為に、どんな苦しみの中でも、悲しみの中でも、阿弥陀様の智慧の光に照らされて、暗い影の中にあっても、明るい光の世界を失う事無く、阿弥陀佛のお働きの中にあって、一切を阿弥陀佛と共に歩ませて戴く処に往生浄土の世界があります。一年間に渡って味わって参りましたが、往生と言う事は浄土往生の事で、仏教の中で全く重要な事なんです。八萬とも言われる仏陀の数多くの教えの中で、これから人間が発奮して努力して成し遂げようとする、如何なる方法の道がどれだけあっても為し遂げられる物事は何一つありません。唯一絶対の道は、阿弥陀仏が純粋一心に、欲も腹立ちも害心もヒトカケラも無く、私の中で私となって瞬時も休みなく行じて下さったのが如来永劫の修行です。その働きの光の影が私の煩悩として知らされて参ります。阿弥陀様は一人も残さず、総べての人の命の中にあって呼んでいて下さってあります。その名が南無阿彌陀仏と言う名です。色もなく形も無い仏様ですからどんな人の中にも入って平等に抱きとって護って下さってあります。お念仏してご覧なさい。ほれ。心は休まり、自然に生きる力が沸き起こってまいります。これが本願成就の真実世界。即得往生不退転の現実です。