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熊本県長洲町安正寺

エコウ10月号第454号
2013年10月1日発行

真宗興隆

往生浄土 I

 往生浄土無くして人生はありません。「弥陀の誓願不思議に救けられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」歎異抄第一章冒頭のお言葉ですが、往生をば遂げる亊こそ人間最大の根源的課題であります。蓮如上人は後生の一大事の亊とお示し下さってあります。後生と言うのは、人間の眼からは見えない世界、人間の知識には上っては来ない世界ですね。それこそ光の世界から来られた方なればこその御教えなんです。釈尊の亊をかの国の人々は。ライテッドマン(光の国からやってきて、この世に光を齎した人)と讃えています。光は智慧。闇の世を照らし正しい道を示して下さる教えなんですが、釈尊自身が述べられる様に、「難信之法」(ナンシンシホウ)人間の感覚には当てはまらない、キャッチ出来ない道、と示されますね。出来てもそれは知識の中に留まって身を動かすまでには進展しない、自らの歩みにならないのですね。それを経典には、「信楽受持難中之難無過此難」(シンギョウジュウジナンチュウシナンムカシナン)心の底から頷く亊が出来ない亊はこれ以上他に無い。難の中の難と言われる教法、それは如来の智慧に依る法で、人間の知識の中からは出てこない物、どんなに知恵優れた者であっても、この亊は見出し得ないものであって、唯一仏道。唯佛のみの道で、仏仏相念。佛が佛とのみ通い合う世界、真実心と真実心とのみが通い合う世界。その世界が凡夫の心に届けられる働きを浄土真宗と言う名でお開き下さったのが親鸞聖人の御恩ですね。それは本願力に依るものだからです。凡夫がこの世で煩悩成就の身。永いあいだに積もり積もった生死勤苦の業報は無明煩悩の生活を決定しています。その事を比叡山の二十年の修行の中でイヤというほどに確認なさった親鸞聖人は雜行を棄てて本願に帰す。と本心からの決意を述べていらっしゃいます。それは、と疑問を抱く人があったら。一切の善行をシカト実践し得るか否か、本気で亊に当たって見れば分かる亊なんですね。如何なる善行も本当には成し得ない物なんですね。それは純真な善心では無くて自慢、驕慢、我慢の雑心を内包していますから如何に晴れやかな善行であっても、当然内心は虚仮雑毒、純真清浄心があっても直ぐに慢心に満ちた自己保存の自大心に満ち溢れ、他に少しでも喜びを与えようと思いはしても、自分に利益が無いと分かったら直ぐに引っ込めてしまう判断の素早さ、如何に長いあいだの業感の確かさであるかが伺えます。清らかな安心慶びの心は、基本的に清浄心が無ければ慶喜心は出てきません。それは心が底から開放されていないからです。何処までも自我心が強く自己を管理しているからです。強力な自我心。自分でその心を変えようと思っても、思う心が自我心ですから、グルグル回って流転を繰り返し、惑業を性懲りもなく、繰返してゆく他にありませんから自力無効、如来は既にお見通し、惑業苦(ワクゴウク)の人間存在そのままに、真実道に立たしめる法こそ人間存在そのままの中に、身を挺して清浄そのままの成就体である南無阿彌陀仏の名と成って働いて下さる本願名号こそ一人も逃さず摂取して真実の世界、如来の世界、清浄世間に変換展開せしめて下さる働きこそ本願名号正定業と正信念仏偈に親鸞聖人がお歌いになり確かめられた道があります。聖人は文類偈に、煩悩を断ぜしめずして、速やかに大涅槃を証すとなり。と、締め括っていらっしゃいます。一切善悪凡夫人が平等に等しく、間違いなく、全人類の根本からの志願、絶対平和の世界建立は、如来本願の一心に帰する他にありません。