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熊本県長洲町安正寺

エコウ9月号第453号
2013年9月1日発行

真宗興隆

往生浄土 H

 九月の秋彼岸。今年の天候の移り変わりは尋常なものでは無く、異常気象、測候所始まって以来初めての記録を更新、地球を取り巻く天体にも異常なる変化。既に釈尊が諸行無常を明言して、諸法無我に真理に、涅槃寂静の世界を顯示して下さった事は明らかな事ですが、無我どころか有我に凝固して自ら自業自得。国際世界の至るところに、三悪道が展開されて、当に地獄。無間地獄の様相を展開して、その終結に人間の知識では限界を超えています。その解決の道は、方法は無明煩悩の成しうる範囲を超えています。其処にお彼岸があります。暑さ寒さも彼岸迄。昔の人は言って来ました。今の人は彼岸が過ぎても暑いじゃないと言うだけで、ケロリとしています。暑くても困り、寒くても困る。困り物一杯で、世は地獄。地獄を超えて、浄土に生きる。それを(往生)と言うんですが、(往生)の真意もわからず、立ち往生と言う大見出しで人間の感情を逆撫でして、愈々不安なる世界に引きずり込んで唯、正しい報道に立っているとばかりに、大手を振って、釈尊の命をかけた説法に逆矢を放っていると言う反省の色はカケラもない状況こそ、地獄其の物で、無明の闇と表現されています。その闇を照らすもの、お彼岸なんです。お彼岸は光の世界。光は闇を照す。照らされて闇を知る。人間は照らされて眼を開く。目が覚めて世界が変わる。オテモヤンは肥後の娘。「そろそろ彼岸も近間れば、若モン衆も寄らんすケン夜聴聞参りにユルユル話しもキャーシューダイ。何もかも仏法聴聞から始まって往く。往く処に往生がある。聴聞無くして新しい出発は無い。暑さ寒さはお彼岸の法に遇う事によって熱からず寒からずの彼岸の世界。正しいお浄土の世界に照らされた心の今を生きる時。往生の慶びの世界が開かれて来るのです。浄土往生は今か、死んでからか、なんて学者の世界で論じられていますが、釈尊は死後の世界の有無など説いておられません。生命の流転輪廻はヒンズウ教一般で信じられている中で釈尊は、今日只今この人生で、流転輪廻の業因を断ち切って、永遠不滅の真理の世界に参入する行業を一切世間「衆生」天、人、に隈無く平等に回向されている事実を浄土の三部経に説いていて下さってありますが、その他の経典、特に法華経には方便品にその事を詳しく説いて下さってありますが、方便と言う意味が分からず、大事に見る事が出来なかった様ですね。人間の知恵は自己を中心にして自分を護る事にせい一杯。真理に目覚めようなんてあまりにも気付く事には、全く眼中にありませんね。でも人間の本心。人間の根底にしっかりと根付いている物。それが本願なんです。阿弥陀佛は南無として十方衆生の生命の中に実力を発揮していらっしゃいます。「常使不絶」大無量寿経の中に解かれています。絶対に絶える事の無い生命の輝き、それを光明無量、と言い、働き続ける相を寿命無量と言い、二つのイノチが一つになって阿弥陀と名のり、その事に目覚めさせずに置かぬと言う働きの事実が阿弥陀仏の声となって聞こえて来ます。それが南無阿彌陀仏と言う呼び声なんです。中国の道綽禅師は安楽集の中に南無阿弥陀仏の名は、本願成就の名であるから、名が聞こえて来たと言う事実が本願成就の成就であるから、聞こえた事実が既に如来ましまして、私の心に聞こえる様にして下さった事実を表しているので、間違いなく如来様が私の暗い心の底に光を齎して下さっているので、お浄土のお働きの中に住まわせて下さっている事実を浄土往生と言い。お彼岸の働きの中に抱かれている生活を、朝夕のお勤めとして「正信念仏偈」を賛嘆させて頂くのですね。