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熊本県長洲町安正寺

エコウ8月号第452号
2013年8月1日発行

真宗興隆

往生浄土 G

 緑化運動で、人間の精神世界を正して行こうと努力して来たのが、人間の計画でしたが、静かな山の中で殺人と放火が行われ、うたまで残して逮捕された男性は、親思いの村興しに意欲を持った若者であったようですが、人知の限界を知らされますね、人間の知恵は、自己保存の欲求を基礎としています。お互いに穏やかに優しく仲良く生きて行きたいと思っていても、その時の状況によっては、地獄、餓鬼、畜生、の三悪道の世界が出現して、小さな世界の家庭の中で、煩悩の火花が散らされ、身心共に疲れ果て、行き場のない苦しみの渦の中で、孤独の悲しみを受ける事になってしまいますけれど、その事は既に三千年も昔に釈尊が解明して下さってあります。其処に佛法があります。佛法は仏様の世界の法則が述べられているのです。仏様の世界と言っても、人間世界と別の世界ではありません。人間が真実の世界に目覚めて喜びの世界を体感した時、其処を佛の世界と言うのです。何故ならば佛の世界の働きは、如来様の働きそのものでありますから、如来様がいらっしゃらない所は無いと言う事が、南無と言う言葉で表されています。無限なる時間と無限なる空間、その中にある、一切の萬物に働き続けている真実の力、総べての物に正しく生きる智慧と力を回向し続けている働きを如来様と表しているのですから、誰ひとりとして如来様の働きの外に居る人は居ないのです。でも仏様の事が分からないと言うのは当然な事です。釈尊の説法が仏様の内実をくま無く述べられた物でありますから、仏陀の説法を聞く他に仏様にお会いする方法はありません。仏陀の説法を聞く事によって、仏様の身心を戴く事が出来るんです。仏様の身と心と言うのは、身は行。心は本願。行は行動。本願は意志。意志は力。不可能を可能ならしめる働き。それは南無阿彌陀仏と名告って下さって在る、お念仏が、佛様と私のご一緒の行動となりますから、お念仏申す働きの中に、限りなき智慧と慈悲が込められていますから、人間として作さねばならない心と行動を自然に表して下さるんです。不思議に人知を超えた不思議な智慧が発揮されて来ます。他力不思議と言うものですね。自分の分別判断だけで生きて行きますと、お先真っ暗な歩みが続くばかりで明るい世界は開かれては参りませんですね。他力本願で無ければ、真実の人間に立ち返る事は不可能です。自力では限定された範囲内だけの生活しか出来ません。どんなに知恵ある人であっても、明日と言う日を確認する事は出来ません。一寸先は何が起きるか、どうなって行くのか予測する事は出来ません。然し業道自然(ゴウドウジネン)と言う法則は間違いありません。其処に願力自然(ガンリキジネン)の法則が働いています。親鸞聖人は、他力と言うは本願力なり。とお示しになります。本願力は阿弥陀様のお働きです。阿弥陀様のお働きを自ら頂いて間違いはありませんよと証明して下さったのが、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経です。浄土の三部経は、南無阿彌陀仏の如来様が一人逃さず総べての人に成りきって、苦しい時、悲しい時、困った時、その人の心の中に指示を与えて下さるのです。明日から来る今日を明日の光に照らされて、間違いなく今日を生かされて往くのです。それを往生と言います。仏様の間違いのないお働きの中に生かされて往くのですから、人間の固定された暗がりの中での日暮しを超えて、真実の光の中での日暮しを、歎異抄に「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思いたつ心の起こる時、即ち摂取不捨の利益に預けしめ賜うなり」とあります。