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熊本県長洲町安正寺

エコウ6月号第450号
2013年6月1日発行

真宗興隆

往生浄土 E

 六月六日は清沢満之師のご命日ですね。安正寺先代を継ぐべき慈明師は私の母の兄にあたり奈良市師範学校の教師半ば、若くして還浄。師の生き方について母の台所の食事の支度をしながらの傍にあってフーン、フーンと頷きながら聞かしてもらったものでした。その慈明師の師である清沢満之師の動静は私の関心事であり、慈明師の筆跡である、満之師の「我が信念」の掛け軸は、若い頃いつも床の間に掛けて、仰ぎ観ていたものでした。浄土の真宗として顯かにされた行信。正信念仏偈に表される正信、念仏の信念の他にありません。正信は念仏であり、念仏は正信である事は経典と聖典に余す処なく示されてある通りですが、その義を良く良く聴聞させて頂く事こそ人生最後のお仕事ではないでしょうか。最後のと言う事は、実は最初からの問題であった筈なんですけれども、今に至ってやっと気づかして頂く程、真なる方向は、無明の心身からは方向づけられない物ですね。無明の目には光明は見出し得ません。無知の心では、智慧は見出し得ません。智慧からの働きによって、初めて無知の我が身が知らされ、真実の智慧が、佛の教えに齎されてあった事に気ずかせて戴くんですね。とすれば真なるものが既に説かれてあったとなれば、その説を聞き開く他に人生はありません。何故ならば真に全人類の、と言うより、一切の生あるものは勿論、一切の事物の存在の根源を明らかにした教説は、他に無いのではないでしょうか。一切の事物、一切の生命の根源は、法にあります。法は自然。自然は業によって成立しています。業(ゴウ)と言うのは、働きを表します。一切の物は働き動いています。諸行無常はその事を表しています。一切の成立を実現せんと用(ハタラク)いているんです。それには人間の欲望による計らいもあるでしょうが、天地自然の意欲も働いています。それを、無為自然(ムイジネン)と示されています。然しその無為自然の中に見落としてならない物が大事な願力自然(ガンリキジネン)と言う事です。釈尊が心身徹到して体得なさった宇宙の法則(法=ダンマ)如来の現行。言葉として南無阿彌陀仏。真実が常に恒に一切の事物を通して、行じ尽くされている現実を一瞬一瞬に戴いてゆく道が、大無量寿経の異訳の経典「過度人道経」に人生は弥陀の本願によって成就されている事が明らかにされています。日本に仏教を敬持された聖徳太子は人間を全うする道は、唯、三宝を受持する他に無い。と宣言されます。清浄なる世界を、濁悪に汚染し続ける本体は、人間無明の認識によって挙って論って抜き差し出来ない状況に追い詰め、地獄のどん底に引きずり降ろして、自害害彼。自らが困窮し、そのまま他をも、同じく困窮のどん底に貶めても、全く自害ばかりに囚われて他に及ぼした害彼なんて感覚の外にあって知る由もない状態ですね。小慈小悲も無き身にて、と親鸞聖人は大慈大悲の願力にお出会いになった聖人は、愚禿の事実を信知せしめられた所に、現実の佛恩を頂き事実に立たしめられる慶びに、菩薩の行の事実を身に染みて行かしめられる事実を「身を粉にしても骨を砕きても償う事の出来ない程の大いなる本願力の中に住まわして頂いている事の事実こそ大願業力の中の日暮しと気づかして頂けば雨の中にも風の中にも如来真実の行信に支えられて一瞬一瞬を大事に頂いて、南無阿弥陀仏の音声(オンジョウ)に励まされて歩まして頂く生活こそ、願生浄土の日日であり、往生浄土の日日であり、真実の行(身)信(心)と一体になった相(スガタ)を摂取不捨の御利益に預けられた相(姿)と頂く事が出来ます。