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熊本県長洲町安正寺

エコウ5月号第449号
2013年5月1日発行

真宗興隆

往生浄土 D

 往生と言う言葉は仏教の経典に述べられる大事なお言葉ですね。でも人間の間に交わされる言葉となれば、人間の思いが入り込んで、全く変わった思いを表して来ます。その代表的な言葉が「立ち往生」でしょう。そんな往生なんてありません。往生は無量寿経の中に、釈尊が、「必得超絶去往生安養国」と、述べておられます。必得と言うのは、必ずひとりひとり身にいただく事が出来ると言う事ですね。いわゆる救われると言う事です。救われる。と言う事は、決して癒されると言う事ではありません。無明の闇が破られて、一挙に光明の世界に転換されると言う事です。たとえ八万の法蔵を知ると言うとも、後世を知らざるを愚者と言うべし。と言う蓮如上人のお文がありますが、どんなにたくさんの知識があっても、真の知識がなかったら、知識が有るとは言えず、返って愚かな物ばかりを抱えている愚者と言うべきである。と述べられるわけですね。「真の知識に遇う事は難きがなかになお難し」と釈尊は経典に述べておられます。親鸞聖人は真と言うは、仮に対し偽にたいする也。と、述べ、仮を捨てず偽を捨てず、真ならしめんとする働きである、と、述べられます。何処までも、何処までも、真に目覚めさせんとする働き其の物を「本願」として阿弥陀佛はイノチの中に立っていらっしゃいます。一切のイノチの中に働きとして現存します。それを涅槃経の中に「一切衆生悉有佛性」(イッサイシュジョウシツウブッショウ)と示されてあります。悉く(コトゴトク)佛性有り。を道元禅師は「悉く有るは佛性」と読んでおられますが、仏性が有ると言う物では無くて、有るのが佛性と言う事なんですね。根幹にあるもの。それによって、物事が存在する。いわゆるそれによって物事の存在意義が明らかになって来るんですね。で無ければ、生きる意味も無くなって空しく過ぎて行く他にありません。生きる意義。生きる喜び。それは真実の世界の発見の他にありません。他の世界と言えば、危険性を感じ、素直に入って行けませんね。それは、煩悩のせいです。今までの思いと行いと結果が迷いと煩いと苦痛が自然に疑いの塊りとなって、何事も素直に信ずる事が出来なくなってしまっているんですね。親も子も兄弟も親戚も、自分自身さえも信じられなくなってしまって手の施しようも有りません。これを「無明業障」(ムミョウゴッショウ)の恐ろしき病。と諭されます。この病は、難病と言われ、誰も治す事は出来ません。その病を、必ず治すと誓われたのが本願成就の南無阿弥陀仏となのられる如来真実の願行に依る他にありません。善導大師は「本願名号正定業」(ホンガンミョウゴウショウジョウゴウ)とお示しになって、必ず一人一人の迷い惑い苦しみ嘆きの世界を超えて、絶ち棄て、今までに無かった新しい真実如来のお言葉を頂き疑いようのない真実心の世界に心の眼が開かれて迷いを迷いと知らされる教えの光に照らし出されて、常に真仮を分別して歩む時、常に常に新しく真実の世界に生まれ生まれして歩む日暮らしを続けさせて頂く事を往生と言いお育てに遇う世界を安養国と言いますから、往生安養国と言われる世界に生きてゆく事が出来るんですね。だから往生と言う事は、真実の教言を聴聞させて頂くまんまに刻々に如来現行の世界に呼吸させて頂く相を往生と言い、一息一息の生きざまを前進する生活、迷いに退く事の無い生き様を不退転と言い、それが如来より定められた生き様である為に、「正定聚不退転」(ショウジョウジュフタイテン)の人生、如来様とご一緒の人生を全うさせて頂くのです。