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熊本県長洲町安正寺

エコウ2月号第446号
2013年2月1日発行

真宗興隆

往生浄土 A

 二月は涅槃会、十五日満月にお釈迦様が八十年の生涯を終えて涅槃にお入りになりました。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、は仏教の三法印と言って教えの旗印、教えの柱を示しています。諸行は無常。全ては動き詰めに動いてじっと留まるものは一つも無いと言う事で、何事も実体として永遠なる物は無いと言う事ですね。その事に目覚める時、迷いの霧が晴れて冷静に事実に対処する事が出来ると言う教えが開かれて、何物にも災いされない道が開かれて人間としての歩みが保証されるという目覚めえの道を示しているのが涅槃と言うお言葉ですね。もともと、心は煩悩に災いされてどう進んで良いのかわからない心の乱れが、霧がサッと晴れたように何のわだかまりもなく遠く深く見通して歩みを進める事が出来る力を戴いた事を表しています。丁度それは往生と言う事と関連があります。私たちの日常生活は定められたレールを走る列車の様に走って居る様にも思えますが時に思いがけない事故に出会ったりしたらたちまちに進路が塞がれてしまい途方にくれてしまいます。その時に「往生」と言う言葉をNHKも新聞社も簡単に使ってしまいますが、大変な過ちを犯しています。「往生」と言う言葉は、「浄土往生」をあらわします。浄土は涅槃の世界です。涅槃は仏様の智慧の世界です。智慧は光のカタチなり、と親鸞聖人はお示しになります。佛の教えに眼を開いた人は暗闇から抜け出て明るい部屋に出てきたように見えて、光の世界に生まれたような喜びを感じ経典には「信心歡喜」と示されてあって、安心して何処までも地に足を踏みしめ人生に見通しをつけて力強く一歩を踏み出すのを「往生」と言うのです。だから全く逆な表現をしている事になります。浄土往生は、阿弥陀仏の浄土に生まれた事を表します。弥陀の浄土は涅槃の世界です。涅槃を佛性と言う。と親鸞聖人はお示しになります。佛性。阿弥陀仏のイノチの世界に生まれたと言う事で阿弥陀仏のお心の中に生まれさせて戴いたと言う事になります。阿弥陀仏のイノチは限りなき慈悲と限りなき智慧、ヒカリとイノチ限りなき世界の中に抱かれて生かされて往くのです。そこでは教えの光に照らされて行きます。でも生きる上にいつも働いてくるのは私たちの思い考えですね。自分の分別。我が計らい。どうしたら良いか、人に尋ねてみても最後に決めるのは自分自身ですから、尋ねて返ってきた返答を吟味するのは自身の分別ですから、自己自身の分別の世界からは抜け出せないのですね。そこに限界があります。何処まで行っても往く事、その事が自己自身の力の範囲で在る限り、迷いの世界からの脱出は不可能になります。親鸞聖人が生命を掛けて二十年の比叡の山での仏道修行は釈尊以来の激しい求道の道のりではありましたが、既に釈尊が山を降りられた因である、凡夫の限界。思慮分別の基礎になっているのが生まれてからの環境と学習能力にかかっていますから、無明の世界は生きる限り続く事になり、学習で得られた決定性のない、関係性の中を堂々巡りの生き方が続く事になります。親鸞聖人の嘆きが此処にありました。何れの行も及び難し。完成成就はおぼつかない事実となった時、初めて出会う事が出来たのが本願他力の御教えでありました。十方衆生。如何なる生存で在ろうとも、宇宙の生命の成立をつかさどっている本体〜無量寿(永遠に活かさんとする生命力=慈悲)と(三世を見通して生きる力の智慧)〜無量光。その名を阿弥陀と言い、阿弥陀が衆生の身となって働いて下さって在る事実の音声を南無阿弥陀仏と、響き渡らせて在ります。