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熊本県長洲町安正寺

エコウ8月号第440号
2012年8月1日発行

真宗興隆

至心回向 G

 盂蘭盆会はインドのウルランバーナが中国で漢字化された言葉で、意味は、凡夫の認識は真理から遠ざかって居て、道理に合わない所から自然に身と心に苦難が襲い掛かってくる。と云う意味で、真理から離れての日暮しは、激しい身と心の苦痛から離れる事が出来ないと云う事を示された言葉なんですね。倒懸(トーケン)と直訳されてあります様に、体が、頭下足上(ズゲソクジョウ)頭が下で足が上になった様に逆さまの状態。足を括って樹木の枝に吊り下げられた状態。血は頭に塊り呼吸困難、激痛が身を包む様に、苦の極地を表現しています。先祖供養。精霊会。たままつり。施餓鬼会(セガキエ)等の名によって、行事が行われますが、唯その行事の形だけに心が走り、真にその名にする心を受け取って行く事に気ずかなければ、仏様の意とする所に到達する事は、難中の難事となって、堂々めぐりの流転の行事となってしまいます。念仏者無碍の一道。歎異抄に述べられる御言葉ですが、念仏。念は南無。佛は如来。「一称南無佛皆己成仏道」法華経方便品に述べられる言葉ですが、一声南無佛と称える事があれば、既に如来のお働きに依る行であればこそ、佛道を行じている事実であって、姿は凡夫であっても行そのものは如来の行であって、回向の行として、念仏の行道によってこの世と御浄土を結ぶ道路に立たせて頂く身としての生活であれば、全ての生活が仏様と御一緒の生活ですから、何の心配もなく、自然の道理に依って何の障害も無く、無碍の世界が開かれて来ます。凡夫自力の迷心による生活は一切が有碍の生活となって来ます。それはこうなってほしいと云う期待感が設定されてありますから、自然の道理に従っての設定でない限り、実現されると云う事はありません。因縁果の道理に依って全ては開かれて行きます。因と縁によって物事は成立します。因は自らにあり縁は他にありますが、縁を引き寄せるのは因にあります。縁は突然何の関わりもなくやってくる事はありません。何時でも今、全て完成しています。その現実を深く認識する能力に欠けているだけの事なんです。その能力を与えて下さるのが仏法なんです。そしてその能力は其のうちに、なんて、のんきな事は言っていられません。諸行無常。何時災害にあって命が亡くなるかわかりません。認識不足に依って、自ら命を絶つ事になったりします。如来の大慈悲は、浅い認識に苦悩する凡夫を憐愍(レンミン)して一時も離れず私の事を常にみそなわして一つ一つ心を見つめ体を共にして歩いて下さってあるのが南無阿弥陀仏と名乗って下さってある阿弥陀如来様の現実相で御座います。だから中国の高僧曇鸞大師は、阿弥陀様の事を実相身と申しておられます。そして阿弥陀様は為者身(イモッシン)貴方の為にこそいらしゃるお方と、呼びかけていらっしゃるんです。真実の御方であり、私の為にこそいらっしゃる御方であると云う認識不足の為に仏様を疎かにし、徒に(イタズラニ)六道を輪廻し生死を流転し続けているのです。先人の言葉に、急げ人、弥陀の御舟の通う世に、乗り遅れなば、誰か渡さん。折角、仏陀釈尊の出世の世界に生を受けながら真実の道理である仏法に出会う事無く人生を終わったら、一切の御先祖の嘆きはいかばかりか、大悲止む事無く、働き続けていらっしゃいます。私達が目を覚ます迄。如来様は本願の命に生き続けていらっしゃいます。その事を「今 イノチ が貴方を いきている」と唱っているのです。真実のイノチ。それは、南無阿弥陀仏の行〈完全なる行〉南無阿弥陀仏の信〈完全なる精神〉が凡身の中から湧き興っています。それがお盆です。