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熊本県長洲町安正寺

エコウ7月号第439号
2012年7月1日発行

真宗興隆

至心回向 F

 至心に回向せしめたまへり。七月を迎えましたが、お盆ですね。盆踊りがあり、お墓参りがあり、御内佛の御荘厳に亡き人を思い佛事法要を御勤めしますね。浄土真宗では、御家族一緒に、御正信偈の御勤めをします。常日頃阿弥陀仏の御本願の御心を戴き、如来様の御育ての中に生かされている事の尊さを讃嘆し、お礼を申し上げる行事であり、尚更に仏様の御守りの真実性に目覚めさせて戴く大事な行事の一つなんですね。佛様は、この世にお出ましになったのはお釈迦様が初めてなんですね。それまでは神様の世界だけでした。一番最初の神様は、天地創造の神様ですね。キリストの教えによれば、神様は天地一切の世界を御造りになり、動物、植物、生きものの最後にアダムとイブの二人の男女を神に似せて御造りになって、この樹の実を食べてはいけないが後は自由に、と言い残して姿を消された。人間は考える葦、と言われるように、なぜ食べてはいけないのだろうか、最後に、食べて見る事にしたんですが、それが人間の過ちの始まり、ついに神様の怒りに触れ、天国から地獄の大地に追放された。と云うんですが、いわゆる人間の原罪と云う事になっているんですが、その罪を救う為にお出ましになったのが、イエスキリストなんですね。「悔い改めよ〃」ユングの心理学に、真実の世界に目覚める道は唯態度の更新にあり。と暗示されます。人間の知恵による探究は、探究その物が目的になり、其れによって利便と幸福の実現に努力してきた歴史の現状ですが、生活の様相は変化しても一切世界が本当に幸福に満たされてきたとは言えない現状であり、愈々人類の危機とも言える様相が顕れています。それは、禁断の樹の実と言う、すっくと大地と天を結ぶ一道に立って生きよ〃と云う心が人間の知恵には無かったと云う事ですね。「この過ちは二度と繰り返しません」と言った言葉も、直ぐに忘れてしまって、核の「平和利用」と云うレッテルを張って、今日と明日を夢見て、想定外の事実の中の日暮しにきがつかないのが人間の浅心なんです。仏様のお心は、深心なんです。深いと云う事は遠いと云う事です。深遠(ジンオン)と言います。三世十方一切を包んでいます。三世を世と言い、十方を界と言い、世界は三世十方を表します。王舎城の皇后イダイケ夫人に対して「汝は凡夫、心想羸劣(シンソウルイレツ)にして未だ天眼を得ず、遠く観る事あたわず。」と凡夫の知恵は真実を観る事は不可能である事実に目覚めさせ、真実の精神と行動をお示しになったのが釈尊の仏教ですね。総てのイノチは一切を生かし往かしめる働きに依って存在する事を顕かにして下さったんですね。佛は如来の姿を表します。如来は真実の世界、浄土の世界を引っさげて一人ひとりの身の中に来て下さって其の身となって、そのひとの人生を共にして全うして下さってあります。その事について、「我ならぬ淨らの我が、我に来て、穢れの我を、我に知らしむ」と歌っています。淨らの我は、如来の我。穢れの我は、自己自身。如来の真実心に出会う事に依って、穢悪汚染(エアクワゼン)の身。煩悩具足(ボンノウグソク)の身であれば、真実の世界からの働きに出会って、喜んで生きる道に立たせて頂ける教えこそ、浄土の真宗とお示しになる、親鸞聖人の真実の教=大無量壽経。行=南無阿弥陀仏の御念仏。信=至心に回向せしめて下さる『信楽』=阿弥陀様のお心。証=阿弥陀様の因位。法蔵菩薩様の大願と大行が私を一切支えて下さってある事の事実に出会わせて頂く処に、信心歓喜。与諸如来等(ヨショニョライトウ)と説かれる華厳経(ケゴンキョウ)の釈尊の教えがあります。