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熊本県長洲町安正寺

エコウ6月号第438号
2012年6月1日発行

真宗興隆

至心回向 E

 至心に回向せしめたまへり。このお言葉は大無量壽経の下卷の初めに示される本願成就の文で、親鸞聖人が大事に戴かれた御言葉です。法然上人は、至心に回向して、と、御読みになりました。回向して、と、御読みすれば、私達が回向する事になります。至心に回向して、と云う事は、一心に仏様に御念仏の行を差し向けて、と云う事になって、よそ事を考えず、唯一心に仏様に対して何かを考え、御念仏の行を捧げると云う事になって、一般の御利益宗教と変わりない事になってしまいます。然し御念仏は私達の方から出てきた御言葉ではありません。御念仏、南無阿弥陀仏は、阿弥陀様が十方衆生の悲しみや苦しみの悩みを離れさせる為に身をもって成就して下さった御名前でありますから南無阿弥陀仏のお声は如来様直々の御言葉なんです。如来様直々のお声なんですね。だから法然上人は御念仏は「不回向」(フエコウ)の行とお示しになりました。回向する必要のない行と云う事ですね。それを親鸞聖人は「他力回向」の行。如来様が私の為に回向して下さった行と戴かれたのです。そしてその行こそ私達が直ちに如来様と御一緒の佛道としての日常生活を歩ませて頂く証し(アカシ)である事をお示し下さったのです。至心にと云う事は一心にと云う事ですが、どんなに私達が一心になってもその一心が相手の方に伝わるでしょうか。また本当に一心になる事が出来るでしょうか。煩悩妄念がわき熾って、一心なる物が他の事に移ってしまって一心は二心三心と変化して始終一貫する事は出来ません。それはもともと一心なるものが無いからです。如来の一心は、衆生の苦悩の根源、自力我執(ジリキガシュウ)自己の考えを握りしめて離さない心を照らしだして、十方世界に開け放って公開して恥ずかしくない真実の智慧の世界を完全に与えて下さる働きを一心に与えんと弛まなく働き続けていらっしゃる事を他力回向と言い、本願を与えて下さるので他力本願と云うのであって、衆議員本会議で自民党議員が「他力本願では駄目だ」と云っているのを聞いて、認識不足の議員に唖然とした事ではありますが、他力本願は至心回向と云う事であります。至心は一心であり、全ての人の心の中に至り届けずには置かぬと云う、絶対なる一心を表しているのでありまして、これは過去久遠の真理の一貫した行業を表しています。それが如来様のイノチその物であります。清浄であり、平等である、清浄は嫌悪の認識を離れ、平等は同じ世界に住する衆生の認識の上に立って、共に真実の認識の上に生きて行こうと云う大いなる精神こそ、弥陀の本願と示されているのでありますから、何としてもこの如来の願心を聞き入れてほしい、と云う願い心こそ如来の本願でありまして、この本願を聞き入れる事の他に、人間社会の成立はあり得ないと云う所に仏陀の智慧があります。その世界は如何にして実現するか、既に今成立しています。その宣言の声が南無阿弥陀仏であります。南無阿弥陀仏は清浄真実の精神が行その物となって、私達の心の奥底に至り届いて、呼びかけて下さっている声が御念仏なんです。御念仏の声は称えながら聞いて観てください。貴方の心の奥底まで知ってますよ。ずっと昔から貴方とは一緒に日暮しを続けて来た私「如来」です。お任せしなさい。責任を持ちます。仏様は、私と一緒になって、真実の生き方を与え続けて来て下さった証拠が南無阿弥陀仏のお声です。南無阿弥陀仏。称えて見て下さい。間違いありません。力湧き未来が今明るく開かれて参ります。今開かれる明るさが、仏様と一緒の世界の明るさです。光明無量壽命無量の阿弥陀様と御一緒です。