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熊本県長洲町安正寺

エコウ3月号第435号
2012年3月1日発行

真宗興隆

至心回向 B

 春の御彼岸、三月の言葉の中で人生の方向とその意義についてお話し致しましたが、彼岸と云う事については釈尊がガンジス川の岸に立ち御弟子達を前にして、この川を渡って向こうの岸に渡る。これが人生の問題なんですよ。とおっしゃって向こう岸を彼岸と言い。皆が立っている所を此岸と言い、彼岸と此岸の間が川の流れ、いわゆる生まれて人生の始まりから、死と云う人生の終りまでの生の事実を明らかに認識して行く所に人間生活の意義がある事を明らかにして下さった所に仏教がありますね。  
 釈尊の入滅以来三千年。印度、中国、韓国、日本と、仏教が東の方向へと伝わって来ましたが、その間を潜って伝わって来る間に国々と人々を生かし続けて教えその物が伝わって来た事実の歴史が見事に親鸞聖人の身を通しての九十年の生涯に結実して浄土真宗と言う教法として七百五十年。真実の教行信証として残された念仏の道が、御門徒の間に日夜仰いでいる正信偈がありますね。正信偈は二種の正信偈がありますね。一つは何時も戴いている正信念仏偈。二つには、念仏正信偈。正信と念仏が上になったり下になったりでありますが、正信と云う事は念仏の他に無いと云う事をお示しになったのであります。信は心の問題でありますが。一応信に対する言葉は疑いでありますが、疑いなき心を信と言いますが、私達は事実として疑いなき心に立つ事が出来るでしょうか。それぞれ生きている身としてそれぞれの道を歩いて来ておりますが、春夏秋冬として見ても、近年の季節の現況は測候所始まって以来の事実に逢って天地宇宙どうかなってるんじゃないかと、驚きと不安の世界に閉じ込められる状況ですね。釈尊は既に、諸行無常、と先ず宇宙の真理をお示しになってあります。それこそ人間分別の世界からは想定外の現状ですね。今まで歩いてきた道、それは既に行ぜられた業果としての今日にあります。事実その物。そして今。現に、過去と未来の接点に於いて、現行されている今。何を今戴いておりますか。一切の過去の決算としての現在只今。藤代先生の言葉として年賀状に「未来から来た今日を戴く」と、ありましたが、その通りですね。今まで歩いて来た道。それは既に望んでいた道でしたか。思いもかけず不思議にも、御蔭さまで歩かせて頂いた道ではなかったでしょうか。わが想いを超えて、不思議にもたどり着かせて頂いた道では無かったのではないでしょうか。共に歩いて来た友も、親しかった人々も、今は亡き人々の数に入り、共に今、私と一緒に同じ道を歩いていて下さると言う実感。それは彼岸の働きの真っただ中に歩かせて頂いていると云う実感その物ですね。十方衆生の総ての中に如来したもう南無阿弥陀仏のイノチは、今現に一切の過去の成果を挙げて、南無阿弥陀仏の智慧と慈悲の摂取の中に抱き尽くされています。現在只今は、一切の過去と、真実如来の彼岸の働きの中に生かされています。今日只今までの一切は、真実如来彼岸の働きに出会わせて頂く為の道その物でありました。と、目覚めさせて頂く事こそが、今日のイノチの願いであり、彼岸の世界、一切の仏様の御心であります。其処に念仏合掌の仏様と私とが心に結び会う、今日までの一切の成就があります。それを信心決定と言い、新しい人生の出発。久遠の永い如来の歴史に導かれて新しい信心の華の世界に目覚めて出発する、其処に春の御彼岸に会わせて頂く謂われがあり、それを失ったら、また再び、永い流転の日暮しに逆転して、迷いの日暮しを重ねて行く事となってしまいます。一大事因縁の今日只今。一心専念無量壽佛、と釈尊自ら御説き下さってあります。