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熊本県長洲町安正寺

エコウ2月号第434号
2012年2月1日発行

真宗興隆

至心回向 A

 二月は十五日に涅槃会をお迎え致します。釈尊八十年の佛道開顕の生涯を終えられました。終えるにあたって、「阿闍世の為に涅槃に入らず。」と、言い残されました。親鸞聖人は涅槃を佛性と示し、涅槃に入って涅槃に入らず。佛様にあっては、入っても入らなくっても、涅槃に変わりはありません。涅槃は佛性ですから、佛様のイノチのお姿であります。一人一人の中にあって、そのまわりを整え、本来のイノチに帰して、種々に佛様のお手まわしの中にある事に目覚めさせて頂くのですね。特に表紙に掲載させて頂きました聖人の御和讃。弥陀の本願信ずべし、本願信ずる人は皆、摂取不捨の利益にて、無上覚をばさとるなり。これは聖人八十五歳二月九日の朝早く、夢の中でお聞きになった御歌でした。法然上人をお尋ねになった聖人は、御念仏が十方衆生総ての者を救うために身を持って成就して、その行を選び取って自らその行となり尽くされたのが如来自身の願いであり、誓いであり、釈尊以来の歴史に於いて証明し尽くされてある事を身を持って味わい尽くされたのが、親鸞聖人九十年の御生涯でありました。弥陀の本願信ずべし。八万四千の煩悩に明け暮れる凡夫には唯一点に集中すると云う事は大変な難事なんですね。それはあらゆる事を知り尽くす事が不可能な為に、別な見解に迷わざるを得ないからです。関東から御同行たちが京都の親鸞聖人を尋ねて、往生の行についてお尋ねした時、私は今までずっとお勧めした通り、御念仏申す事の他に知りません。もし不審があるのなら、奈良の興福寺、比叡山の山々には、たくさんの偉い御坊さん達が学問し修行していらっしゃるから、その人達に直に逢ってお聞きになったら好かろう。と決して押しつける事などはなさらなかった。その疑問こそ今までの親鸞聖人自身の歩みでもあったからです。でも誰がなんと言っても親鸞自身においては、何れの行をも全うし尽くす事は出来ず、いたずらに明け暮らす。と、蓮如上人は嘆かれますが、人間が本当に生きると言う事は釈尊以来の人間の大問題でもありますね。しかし、本当に生きるってどういう事なんでしょうか。それはやはりその人自身の熟慮から生まれる深心の決断に従うほかに無いのではないかと思われますが、熟慮と言い、深心と言っても、それぞれ一人ひとりに浅深の差があり熟慮にも限界があります。能力にも限界があります。でもその限界を知るにも、全体像が見えない限り限界も見えない事になります。そこに自覚の難しさがあります。藤村 操が人生の実相を探求して終に明らかにする事が出来なくて、「人生は不可解なり」と、遺書を残して、華厳の滝に身を投じて人生を閉じた事がありますが、広く眼を開いて既に開かれている世界に遇う事が大事な御縁である事が頷かれる事実ですね。菩提樹の下に座られた釈尊は深思熟慮を重ねられて、開顕されたのが、目覚めた人間を生み出す心の法則。いわゆる総ての人間を眞の人間として生まれ変わらせる法則としての仏法だったのですね。あらゆる人間。と言えば、ひとりひとり体を異にし、心も違っています。一切の姿を見る事の出来た知恵を、一切種智と言います。眞を見出した時。それは眞その物で、露塵(ツユチリ)程も、仮や偽があってはなりません。とすれば、この世に生きる者、縁によって生まれる時。時と所を異にして見解を異にします。それぞれの異をそれぞれに正を主張すれば、乱闘の場を現出する事になり、現在の世相その物ですね。末の世と表現されます。いかなる末世であろうとも、真実の世界に生きる身として成就された教えこそ親鸞聖人が戴かれた弥陀の本願念仏でありました。