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熊本県長洲町安正寺

エコウ11月号第311号
2001年11月1日発行

念仏の大道
念仏は真実の人を確保する

 

 十一月お霜月、真の仏教を明確にし、仏教の根幹を文書として顕示し、自らその道を歩み、実践実証して行かれた親鸞聖人の御正当、報恩講法要が勤められる月で特に聖人の御苦労とその御徳の広大さは、筆舌に表し得ない程で、恩徳讃と呼ばれる御和讚、如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし。親鸞聖人御自身が教えとその歴史となられた高僧の御恩を賛嘆されますように一切大衆の道が示されています。世界の宗教と浄土の真宗を戴いて見ますと、宗教一般には、七仏通戒の偈文に示されますように、藷悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 の他にありません。それは善導大師が示されますように、廃悪修善と言う事で、三歳の童子さへ知る事であり、また八十の老翁もなし得ない道でもあります。親鸞聖人が歎異抄に述べられますように善悪の二つ総じてもって存知せざるなり。人間の分別では相対的な善悪でその決め手はありません。忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずと、人間関係の正常化を念ずれば、その進退は窮する他にありません。清沢先生の嘆きもそこにありました人間の筋道を立てようとする時、他の恩恵の重々なるを知れば、恩に報ゆるに大いなる義務を感じ、その義務が多であればある程、その行為の不可能なる自己を発見せざるを得ません。人間存在の奥深くにある自己保存の執着からなる思慮分別の闇を解放する所に、釈迦牟尼仏陀の教説があります。その根本を親鸞聖人は真実の教を顕さば、すなはち大無量壽経これなり。と顕示されます。真実の教えは如来に依って示されます。
 如来とは真実の世界から真実に昏い人々の世界に来って、真実の世界を知らしめんと歩み続けられた釈迦牟尼仏陀を表します。釈迦牟尼仏陀は八十年の生涯を通して真実の世界を説き続けられました。如とは、 一切の物に離れず、常にそこに在って、その物を真実ならしめんと働き続ける シャクティ(力)、その物を言い。其処から働き出た人、来現の人を仰ぎ、如来世尊と戴きます。如来世尊の教えは一如の世界に包まれた存在としての生き方を説かれます。その説を聞き歩む所に正道があります。その説を聞かずして、自己の分別に立ち歩む時、各別の道が交差して、動乱を生じ、その解決に長い時間を要して、終に解決は不調に終わります。最後に残るのは不安と失望の他にありません。それでもなお、自己を失うまいとして自己に閉じこもる道だけが自己の中に開かれている道で、自分の穴の中で閉塞し窒息し自ら地獄の苦を招く他にありません。
 その業火を釈迦牟尼仏陀は、最初の説法で、この世界は火に包まれ、貴方達の身の中にも火が燃えている。と、火宅無常の世界と示され、親鸞聖人は歎異抄の最後に、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします。と仰せられます。無知無明の火は時が続けば続くほど、姿形を変えながら、愈々強く燃え盛って消える事はありません。それを大悲して仏陀の説法があります。善導大師は、唯仏一道独清閑。と示されます。それを、親鸞聖人は和讚に、九十五種世をけがす、唯仏一道きよくます、菩提に出到してのみぞ、火宅の利益は自然なり。と讃嘆されます。一切の教えが、各別の自我を保つ心情に根拠を置く限り、各別の道の交差点で火花を散らす結果となり、静止する事はありません。唯、仏の一道のみ、静かに自ら一人一人がその道を求める心に立ち返るまで待ち願っておられる所に如来大悲の本願があります。世界が混乱すればする程、愈々本願は強く自己覚醒を促します。自力我執の昏迷の中に在る人々の為に、仏の種性を護り保ち続けて、受け取ってくれる時を待ち望んで居られる声こそ、お念仏であります。善導大師はお念仏を白道と示されます、黒道は凡夫煩悩の濁った道、白道は如来清浄の真実道。道は教え、真実道は真実教、道も教えも如来を表します。
 如の働きを來と言います。道も教えも知らなくても如来の働きの中にあります。その声がお念仏です。如来の働きを知らずして戴く心を表して、お念仏の声が一人一人の口を通して聞こえてきます。お念仏の声の中から、常に抱き取って護り続けて下さる、南無阿弥陀仏のお心が伝わってくる働きを信心と申します。