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熊本県長洲町安正寺

エコウ7月号第309号
2001年9月1日発行

念仏の大道
念仏は真実の人を確保する

 

 人の噂も七十五日と言う言葉がありますが、諸行無常の世に生きる人間の、特に日本人の心に写った生き方を表して居りますね。人の噂、関心は長続きしないと言う事を表し、特に日本人の思想形式が単発的であると言う事でしょう。八月十五日の靖国神社総理参拝の是非について国民全体も、近隣諸国からの注視の様相は五十年経った今日その根源的解決がなされていない大事な問題の一つであります。お参りするのにお祓いを受けたとか受けないとか、二礼二拍手一拝で無くて一礼だけで済ませたとかは問題ではないですね。宗教と言う物の内容が理解されて居ない様です。無宗教の施設にすれば良い、無宗教の施設を造るべきだ等と言う思考や発言が多くなされていますが、無宗教の施設とは精神の籠もらない施設と言う事になり建造する所に精神が働きます。精神の籠もらない建物はありません。建築の始まりと終わりには必ず儀式があります儀式は精神を表します。特に亡き人を対象とする建物である限り亡き人に対する生きる人の精神が表現される筈です。その精神こそ宗を必要とし、必要なる宗を教える物をこそ宗教と言います。無宗教の施設等にお祭りされる亡き人はいらっしゃらないでしょうし、お祭りすると言う事自体成立しない事になります。生きている人以上に亡き人の願いがあります。先人である亡き人の心を尋ねる、願いを聞き届ける事こそ、お祭りする心根であり、宗教の根源があります。人間の個々の立場を基盤とした対応と処理の上には、普遍的真実の宗教は開かれません。親鸞聖人の浄土真宗は、全ての人の身の上に永遠真実の世界と精神を顕現せしめんとする如来の本願に帰命する所にありました。
 その事を現実に実証し行動なさった方として、聖徳太子を終生仰いで行かれた所に首肯する事が出来ます。
 太子の幼児時代は真摯で無口な方であったらしく、初めて口になさった言葉が「南無佛」と言うお念仏であったと伝えられております。長じて太子となり国の基となる憲法の作成に当たり、佛法僧の三宝を基本と して和の国でありたいと願い、和国こそ四海平等の根源となる国でありたい。その国は既に佛国(浄土)として成就している。その国土を念じて行ずる時、念じ行ずる人の手によって顕現される物であって、その基となる物が「南無帰命」と言う、教えを大事に戴く事こそが要である事を、「篤敬三宝」と表し、その外に道無しとお示しになったのが「世間虚仮・唯佛是真」と言うお言葉でした。世間を成り立たせている人間の世界、各個各別の分別の世界は完全成立の要件を満たす事がないので、虚であり仮であり真ならざる偽として存在する。仏陀が示される精神世界はいかなる虚仮をも抱き取って捨てず、人間を覚醒の世界に導き、その顕現に向かわしめる往相、往相の心をもって還り来る還相、共にこれ真なる佛の行として、人間が受け保つ道なりと示し願われた所に聖徳太子の命である事を親鸞聖人は戴かれたのですね。日本のお釈迦様として太子を仰ぎ、末法に於ける真の仏教の教示者として、聖徳太子を仰がれました。国の在り方、政治の在り方家庭の在り方を、阿弥陀仏の精神理解とその実証にこそ明らかに人間の道である事を強くお示しになったのですね。
 阿弥陀仏の精神を本願と言います。本願は根本意志精神の要を表します。要は必要にして欠く可からざるもの、これなくして成立しないと言う要、それが本願の要、第十八願のお心ですね。我阿弥陀仏となりて、十方のあらゆる衆生、生きとし生ける全てのものが心を一つにしてお互いに信じ喜び、共々に生きる事への励ましの力となって欲しい、その核となり力となろうその核と力の名を南無阿弥陀仏と言う、この念願を聞く事が出来たら念仏してほしい、念仏は佛念であり称念であり、佛佛相念であるから、念仏する人に即、阿弥陀仏の精神と念願とその力があます所なく回向回施されるのです。これを他力本願と申します。
 本願の他力は阿弥陀仏の壽(イノチ)そのものです。その壽(イノチ)そのものが、南無阿弥陀仏の名となって、念仏の言葉となり、言葉は念願を引き起こし念願を心として立ち上がる時、人中の花、プンダリーカ、芬陀利華(フンダリーケ)妙好人・好好人。お釈様は私の最も親しい友であると褒め称えて下さいます