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熊本県長洲町安正寺
エコウ7月号第308号
2001年8月1日発行
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念仏の大道
念仏は真実の人を確保する
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人間は感情の動物と言われたのは随分昔の事ですがそこには深い人間愛に支えられた世界がありました。
この頃は唯、自我愛に立った短絡的感情が横行して居るようですね。私はタレントでは無いと言った選挙運動中の小泉主相の周囲に表現された様です。物事を深く考えて正しく対応し処理して行く事が失われてしまって非常に危険な物を感じますね。真実の精神を疎そかにする事が自覚されずに行動に踏み込む大きな危険性を見抜く冷静さを失って居る現況は見過ごすわけには行きませんね。温暖化現象に関する世界的な会議もギリギリまでの理念と情念との話し合いの結果が見えて、日本国内での政治的、社会的、諸問題での解決策の基本に真実の感情が失われている事が強く感じられますね。
真実の感情、感は純粋感覚、情は深い心情、大いなる慈悲の心、真実の感情は無我の心情による大慈悲心その事を表す言葉がお念仏であり、お念仏は大慈悲の心を表し、大慈悲の現実を実感させる行であります。行は自然の行ですから、その自然の行の中での生活を実感させる働きですね。その実感の元になる組織を弥陀の本願と言います。本願のお言葉を聞けば、聞く人に真実の感情が芽を出し、その芽が心身の全細胞に満ち満ちて、摂取不捨と言われる大いなる安定感覚が開かれてきますね。開神悦体(カイシンエッタイ)とも言われ、信心歓喜とも言われ、
正定聚(ショウジョウジュ) とも言い、必至滅土(ヒッシメツド)と言って、真実の世界からの(メッセ-ジ)を聞きながらの生活が開かれて、不変不動の道が与えられます。これを大道といいますね。念仏の大道、佛を念う道、八月はお盆。亡き人の願いに参画して共なる世界に目覚めて軌道修正の月でもあり、共なる道を見いだし得た喜びの集いが歓喜会と言うお盆の法要です。共生と言われますが、一切の生ある物と共に生きて下さる方を佛様と言います。佛様でなければ共に生きると言う事は出来ない物ですね。
そしてまた共にと言ってみても、共なる自と他の実相が明らかでない限り共にと言う事は成立致しませんね。お盆の法要をある宗派では、施餓鬼法要と言っていろんな物をお供えしたり、追善の供養をしたりで、大変な行事がなされますが、檀家の人がお寺に聞いたそうです。内の先祖は餓鬼道に落ちているんですかと。餓鬼と言うのは、自分の愚かな知恵ばかりで生きて行く限り、必ず壁に突き当たり、自と他の見境がつかなくなって、自縄自縛、自我の中に閉じこもり、自分の思いだけを食べ物として、不足不満の固まりとなって、ついに鬼となって八つ当たりの存在となります。餓鬼道からの解放はただ教法を聴聞する外にありません。そこにお盆の意味があります。盆踊りは実は教法にお会い出来た歓喜の相を表しています。今は聴聞を省いて踊りだけになってしまいましたね。それを像法の時代相と言います。像法の自覚を末法と言います。末法は聖なる智慧を無視して、愚かな知恵のみを依り處として、愈、論争し敵視して自他共に傷つけ合う事ばかりに終始して居る現状は、末法滅法の現象が極めて露(アラワ)になってきたように思われます。地獄、餓鬼、畜生(傍生)は一切の無知から現出されます。それは真実の智慧(佛の心)に無関心さから現れます。その無関心からの脱出は唯聞法にあります。聞法に依って真実の智慧が開発されます。一切を摂取して「一人一人が独立し、安定し、佛が説かれた法(ダンマ)=(宇宙成立の根源的真理)=(諸行無常)(諸法無我)(涅槃寂静)一切は常に働いている、そして一切は係わりあいながら一切を成立せしめんと働いている事を認識する時、自我の要求を離れて一切の安定を念ずる精神世界、そこに静かなる喜びの安定した、永遠なる願いに生きる主体的イノチを確保して一息一息に永遠なる生命の息吹を体感して行く生活そこにお念仏の実相があります。念仏を親鸞聖人は実言とお示しになります。真実の言葉と言う事です。応信如来如実言。まさに如来如実のみ言を信ずべし。疑はず信じなさいと言う事では無くて、真実の教えである弥陀の本願のお言葉を聞けば、自然の中に成立している清浄意欲の働きが、清浄意欲の中に心身を誕生せしめて下さる大いなる行(ギョウ=ハタラキ)として、
お念仏が人々の口を動かし耳を開き心を開いてくださいます。
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