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熊本県長洲町安正寺

エコウ7月号第307号
2001年7月1日発行

念仏の大道
念仏は真実の人を確保する

 

 大阪の池田市教育大付属小学校乱入殺人事件は人々を驚かしあらためて人間の非道性を知らしめる事になりましたが、既にお釈迦様がいらっしゃった当時、指鬘外道「シマンゲドウ」と言う、他人を殺す事によって自己の存在性を確認しようとした人が居りました。人を千人殺そうと決意し、その証拠として一人一本の指を切り落とし穴を開け紐を通して首に掛け人を恐れさせて、誰一人近づく者はありませんでしたが最後の一人になった時、そのあいてを自分の母親にした事を察せられたお釈迦様は、その行動の大いなる過ちである事をお説きになり、「殺」と言う行為が生命を頂いて居る者の、生命に対する最大の罪である事を知らされ、直ちに心を翻してお釈迦様のお弟子となり生命を守る行者となったと言う事ですが、歎異抄の中で親鸞聖人が唯円坊に対して「唯円や、そなたはわしの言う事を聞くか」と尋ねられると唯円は「えーそれはお聖人様のおっしゃる事ならば何なりとお聞き致しますとも」「そうか、それならば浄土往生の為に人を千人殺して来い」「そ、それは出来ません千人どころか一人も殺す力はありません」「今何と言った、何でも聞きますと言ったではないか」と言う問答が出ていますが、その元となっているのがアングリマーラの物語りですね。縁があれば殺すまいと思っても百人千人殺す事もある。殺さないのは心が善くて殺さないのでは無い、殺すべき縁が無いから殺さないのである−−と。そこで定例法座で質問が出ました。宅間 守と言う人が池田小学校の一、二年生の生徒を殺し多数の生徒や先生を傷つけたのは其処に縁があったからでしょうか。いやそうではありません。縁はあくまでも他であって縁を縁としたのは自己の因が其処にあったからです。宅間 守と言う人には過去の種々な出来事が身について居ます。エリート校に対する恨み、思うに任せぬ生活、自己本意と疑いの渦の中に沈み、罪を犯しても罪から逃れる路に対する知識欲、警察の取り調べに対しても持ち合わせの知識を利用して自己を守る事に全力を尽くす様相は、人間の知識の世界の実情を表現して居ります。その名「宅間 守」、煩悩の宅の自己の間を守る事に躍起となっている凡夫煩悩の人間の名ですね。その同じ名を、如来「仏様」の宅の中の聞法の間を守る人間になると言う事が何よりも急務ではないでしょうか。
 昔、西洋の哲人が宗教なくして人を教育するは、街に虎を放つが如し。と言って知識偏重の教育に警鐘を鳴らしています。人間を人間として自覚せしめる教えに会わなければ、人間が人間になる事は不可能でしょう。何故ならば、人間は皆自己を守る知識だけに立って生きて居ます。それが不可能な時、関わりある者を否定して行きます。否定の極は殺に繋がります。個人もグループも国も変わりはありません。其処に人間を人間とする中心となる教えが必要になって来ます。そこに仏陀釈尊の仏教がありますが、八万四千の教法の中から真実の教、大無量壽経により浄土真宗をお開きになりました。無量壽経は題名の通り無量壽佛の本願と本願が成就した世界である国土とその国の働きである本願力。その本願力を浄土真実の教行信証として大部の著作を残して下さってあります。真実の教え、それは真実の利を確実に手渡しして下さる教え、真実の行それは真実の生活、真実の信それは真実の精神、真実の証それは過去と未来を実証する今日の日暮らしを歩む、其処に親鸞聖人がお示しになる浄土真宗があります。真実の教え、それは聞く外に道はありません。聞く事によって真実の世界が顕われ、生まれ、生かされ、味わい、佛と共なる人々との世界、これを正定聚不退転の位と言い、佛教現実の極まりを表します。 凡夫煩悩の自因に如来誓願の自因が働いて、凡夫自力の自因に如来他力の信自因が至り届いて、他力の信心が成就して、自然法爾「ジネンホウニ」にありのままそのまま心身共に如来に抱かれて、浄土佛国往生の真実道を歩まして戴く事が出来るのです。阿弥陀佛の働きが身に響く時、自然にお念仏が飛び出して下さいます。念仏は念法となり、念法は念僧となる。念仏は阿弥陀佛の願成就の行、阿弥陀佛の清浄真実の真心の行、お念仏のある所、凡夫を離れず共に生きて下さってある如来を証明する行であります。