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熊本県長洲町安正寺
エコウ6月号第306号
2001年6月1日発行
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念仏の大道
念仏は真実の人を確保する
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| 六月は水無月、衣替えの季節になりましたね。日中は真夏日でも、朝方はチョット肩の冷えを感ずる事もありましたが、もう夏、一応冬の衣をたたみ、薄い夏の衣に替える時を迎えました。この月の表紙の写真に刈り取る前の麦畑を掲載しましたが、その言葉に「麦秋。無義の実は既に結ばれてあり」と標記しました。身も心も生活も共に衣替えの時ですね。麦秋は麦収穫の秋を表しますが、無義の実は既に結ばれてあり、と言う事はお解りでしょうか。無義と言う事は、歎異抄第十章の中に、念仏には無義をもて義とす。不可称不可説不可思議の故に。とあります。親鸞聖人の御和讃の中に・聖道門の人は皆、自力の心をむねとして、他力不思議に入りぬれば、義なきを義とすと、信知せり。と歌っておられます。聖道門と言うのは、中国の道綽禅師が仏教、お釈迦様の教えを二つに分けて一つには聖道門二つには浄土門、聖道、浄土の二つの門が開かれてありますが、聖道門は自力難行の道であってとても平凡な人間の通れる道では無いと龍樹大師はお示しになります。たとえ行ける人があったとしても、佛に成る道ですから、聖なる道を一歩踏み出したら、どんな事があっても立ち止まる事は許されず、佛になる迄一歩も退く事は許されません。永遠に長遠に成佛完成迄生を越え死を越え精進しなければなりません。人間一生の間に成し終える物ではありません。そこで龍樹大師はいかなる人も人間一生の間に成立する仏道は何処にと求めて得られた道、それは易行道お念仏の道だったのです。親鸞聖人はお正信偈の中に顕示難行陸路苦・信樂易行水道樂とお歌いになって成佛の道に難行と言う一人旅の苦行と、大いなる船にみんなと一緒に乗り込んで共々に成仏への道を歩む如来に導かれる道ありとお示しになるのですね。大いなる船は大願の船、大願の船は六字の船、南無阿弥陀仏の命で出来上がった船、必ず渡すべく一切衆生を抱き取って乗せて運行している船、それは尽十方無碍なる広大無辺の船ですね。船は港から港へと運行します。港は出る所入る所、生まれる所帰る所。広大無辺の大いなる船は、それぞれの人の生存の場所を出発の港としまた帰すべき港とする。人生そのままを出船の港とし帰還の港とする。一日百歩、一月十歩、一年一歩一生そのまま。自分自身を尋ねて世界を歩き続けて、元のままの自分自身にたどり着く、還来生死輪転の家、実はその家こそ、如来の住し給う家、その家に私達は住まわせて戴いています、四十八本の輝く柱、疑い無き大いなる信心の屋根、正定不退の強固なる床、清沢先生は安心の家と戴かれます。天命に安んじて人事を尽くす。安心して今日の一日を生きる。其処に大いなる如来の家の中の日暮らしがあります。六月六日は清沢先生の御命日、親鸞聖人の真実の仏教を、近代文化の生活の中に身を通して明らかにして下さったのです。 天上天下唯我独尊と言う、釈迦牟尼如来のみ教えを戴く所、無知無能のこの身をそのまま転じて、いかなる環境の中にあっても、確固不動の独立者たらしめる能力の根本本体が、南無阿弥陀仏の阿弥陀如来であるとしめされますね。阿弥陀如来は十方を尽くされる本体であれば、無碍なる能力の源。それは光。光りは佛の智慧。三世十方の真実を見分ける眼が与えられますね。その徳を戴かれた龍樹大師は、十二礼と言う阿弥陀佛を讃嘆するお歌を御製作になり、このようなお徳をお持ちになる阿弥陀様なれば、身を挙げて礼拝致します、そしてこのような御徳をお持ちの阿弥陀様のお国に、全ての人と一緒に生まれさせて下さい。と願われます。阿弥陀佛は一切諸佛の礼拝囲繞の中にまします。一切諸佛の讃嘆供養を受け立ちまします。その国には悪名も悪道も無く、帰命頂礼成就の国であって、すべて阿弥陀佛の願行具足の国であって、諸々の善根功徳は海水の如く満ち満ちていて、今この身に流れている。この法水に触れる時、獲る所の善根は如来の功徳そのままであれば、信も不信も越えておのずから大宝海に浮かぶ身として戴く事が出来るのですね。そこには自力の計らいも分別も要せず、唯念仏して、唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩。念仏には無義をもて義とす、人間の思惟を越えた如来の永遠を尽くす思惟で完成された真実心の行、その行は全てを生かし、目覚めさせずにおかぬと言う念力の行のお念仏ですね。 |
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