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熊本県長洲町安正寺

エコウ5月号第305号
2001年5月1日発行

念仏の大道
念仏は真実の人を確保する

 

 五月、緑溢れる候となりましたね。目に青葉、山ホトトギス初鰹。と言われるように山に丘に海に生気が満ち満ちて来ます。休日を利用して野に山に海に人々が溢れます。比例していろんな事故も起こって来ます。
テレビのニュースでも事故の現場がナマナマしく報道されますね。NHKのラジオ放送で今日は何の日、と言うのが毎日解説されておりますが、善しも悪しも何事も無かった日はありませんね。
それは今日も同じ事です。空しく過ぎる日もあり、充実した喜びの日もあり、灰色に惑う日もあり、悩みに満ちた日もあり、苦悩苦痛の日もありましょう。中国の善導大師は、その事を、いかなる時、いかなる處にあっても憂い悲しみの声に覆われている。と、示されます。
 既に釈尊は一切皆苦と教えられます。それに三法印。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。これは、世の実相をお示しになります。それを聖徳太子は、世間虚仮、唯佛是真と述べられます。人間世界の実相は、歎異抄の終わりに親鸞聖人のお言葉として、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、よろづのこと皆もってそらごとたわごとまこと有る事無きに唯念仏のみぞ真(マコト)にておわします。まことなき心による生活の積み重ねは、いよいよ闇黒と苦痛の到来を約束されるのは自然の道理ですね。然しその事実を大悲
して既に解決して下さったのが南無阿弥陀仏の名となって現に働いて下さってある阿弥陀如来様ですね。それをお念仏と言います。
 念仏の大道と題してお話しを続けていますが、念仏は佛の名を称える事ですが何故お念仏と言うんでしょうか。それは念仏が如来様の命であり、本願の働きであり、真実の精神とその行その物であり今現に続行中の如来そのままを表す言葉だからなんですね。だからお念仏を他力と言いまた仏力と言います。お念仏には不可称不可説不可思議の功徳が円満して称える人に功徳が自然に与えられます。その因(モト)となって下さったのが法蔵菩薩様で すね。親鸞聖人はお正信偈の初めに、帰命無量壽如来南無不可思議光と賛嘆されます。限りなきお慈悲の佛様全ての思いを越えてお見通しの智慧限りなき阿弥陀様の真実にお遇いする事が出来ました。と信心の心を述べられます。実はそこには、その事を実現せずにはおかんと言う大いなる願いの連続行があったんですね。それを次に法蔵菩薩因位時とお歌いになります。阿弥陀様は安らぎと喜びの日暮らしの道を知らず、唯営々と苦悩の中に生き続ける衆生を一人も漏らさず安楽な日常を得る為には、清浄真実の行為の上に立たせなければならない。然し清浄も真実も濁世に我執をもって生きる衆生には手も足も届かない無縁の世界の事であってその道は全く断たれた事であることは明らかであった。阿弥陀佛の本願の中心第十八願にその事を「唯除」と示されます。「自己中心」と言う事です。各各一人一人自分の思慮分別によってしか生きられない限り共に手を取って喜び会える世界に住む事は永遠に不可能な存在である事は明白な事実である事は少しでも識ある人には理解出来る事ですが、何としても実現せずにはおかぬと言う願いを建てて一歩踏み出されたのが法蔵菩薩様でした。阿弥陀様の果位から大悲の心の動きによって因位の菩薩となって清浄真実の心と行の宝珠の完成に向かって行かれます。その間永劫と言う時が経ちます。永劫は不可能を可能にする時間を表わします。五劫に思惟し永劫に修行して南無阿弥陀仏の如来となられて以来今日まで十劫と言う時が経ったとお釈迦様はお弟子の阿難様にお話しになります。それを親鸞聖人は約束と願いを実現するのに十劫と言う時が経ったと懺悔と賛嘆の言葉で戴かれます。阿弥陀佛になられた如来様は、阿弥陀佛を知らない一人一人の為に阿弥陀佛を拝む(南無)心を持ってもらう為に自ら南無の阿弥陀佛となって私達と一緒に行じて下さって十劫経ったとお示しになります。久遠の昔から今日までずっと阿弥陀様のお働きによつて生かされて来たのであったと知らされれば、私となって下さった阿弥陀如来は阿弥陀如来の功徳を戴く身と成るために法蔵菩薩となって私を因位に立たせて下さるお働きの響きが正覚大音響流十方のお念仏なんですね。お念仏は私を護念して下さる阿弥陀様の直々のお言葉なんです。