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熊本県長洲町安正寺

エコウ4月号第304号
2001年4月1日発行

念仏の大道
念仏は真実の人を確保する

 

 四月はお釈迦様御誕生日の八日があり、親鸞聖人生誕の一日を戴く月ですね。東本願寺では春の法要として一日から宗祖の御生誕をお祝いする音楽法要が営まれ、浄土の真宗の御法に会い得た喜びを分かち合う法要ですね。四月は多くの組織で年度始めの行事が行われますが、新しく出発するにも、現地点と方向とを明示しなければ確かな出発とはなり得ませんね。学校の入学式にも会社の入社式にもそれぞれグループの基盤と方向性とが示されますが、生きとし生けるすべての物にもそれぞれ命の方向性が問われて来ます。春の風に誘われて芽ぐむ草花にも自然の願いを込めて伸びて行きます。世界の真理を体得されたお釈迦様も、一切の衆生、空を飛ぶ鳥、地を這う虫、草も樹も魚も動物達もお釈迦様の命の中に感じ取っておられたんですね。足を大地に、両手を空に、体は世界と入出、一体となって生きる生命力を感じ取り伝道へと旅立たれた處からこの世に仏教が始まりますが、八万四千と言われる教法は大きく分けて二つになりましょうか。これは曽我先生の言葉に、山上の釈迦と下山の釈迦と言う見方が示されてあります。真なる物、聖なる物を求めて山上に昇り尊貴なる事実を究めんとする向上の歩み、それは人間の等しく願い求める生命の発露であり求道の要路と言ってもいいかと思いますが、弥陀の本願では十九の願に掲げられてある、修諸功徳の願ですね。志を建て身を入れて尋ね行じて志願成就へと歩みを起こす、それは命懸けのひたすらなる行であり、死の寸前までたどり着かれたお釈迦様は、これは間違いと言う事に気づかれます。身体髪膚これを父母にうく、と言う中国の言葉がありますが、大いなる生命の恵みによって与えられた身体を傷めると言う事は、恵みに対する反逆であり、与えた自然の意志を踏みにじる事となり、それによって得ようとする思いは自力我慢邪見の路であり、正しい道が得られる筈が無い、とお釈迦様は修行の路を放棄されます。それは浄土宗を開かかれた法然上人、浄土の真宗を開かれた親鸞聖人が比叡の山を下りられる姿と重なってまいります。一切の衆生が生きる場の大地に根を降ろすと言う事です。実はその大地こそ、生命の根底を表し、これを無にして一切の生存はあり得ないと言う事でした。後に菩提樹と名付けられるピッパラジュの下に座して、静かに呼吸する大地と身体と宇宙の生命とが一体となって躍動する生命体の世界を、お釈迦様は一如法界、真如法性と名付け如来の壽に出会われます。その時われ法に会えり、法の働きを受けたり、法の世界に誕生せり。その生命を如来と言えり。如来の働きによって如来の身となれり。生命の底からの宣言、それがお釈迦様の南無の始まり、南無の心を帰命と言いますが、帰命はまた大安心を与えます。それは帰命がまた大生命そのものだからです。その生命の起源は遠く無限に溯ります。無限の生命の営みは久遠の歴史を通してお釈迦様の八十年の生涯に結実されて、如来となり如来の教法が確かに言説されて行きます。如来を真実と涅槃経に説かれます。真実は如来なり。如来は法として一切世界に満ち満ちて行じておられます。衆生の一人となって自ら阿弥陀仏に帰依してお説きになったのが浄土の三部経ですね。阿弥陀仏の本願力は十方世界に満ち満ちて一人も漏らさず智慧と慈悲の感覚を回向して共に喜びの生活を開いて下さる働きが南無阿弥陀仏の名願力です。南無阿弥陀仏の声を一声聞かば既に如来の働きの中にあり、如来共に生きて下さる証拠にお念仏の声の中にある事が知らされて来ます。それが諸仏の、一切の仏様が願われる唯一つの道それがお念仏なんですね。寝ても覚めても諸仏のお念仏の中に生かされてありますから、如来の法の中に生かされる身となります。それを往生と言います。生かされて生きて行きます。清浄真実の法の命の世界の未来を常に只今に戴き続ける生活を往生と言い、今日只今に如来の願行に抱き取られている生活をお念仏が証明して下さいます。念仏は如来の行です。如来の行は真実の行です。お念仏する人には如来の行が重ねられていますから、歎異抄には、念仏者は無碍の一道なり天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍する事なし、念仏に勝る善行は無い、至上善行なるが故に一切の諸仏はお念仏を称賛していらっしゃいます。