ekou
line

熊本県長洲町安正寺

エコウ2月号第302号
2001年2月1日発行

念仏の大道
念仏は溢れる功徳を与えたもう

 

 人間とは何か、この問いは人間の誕生から限りなく久しく尋ねられて来た問題ですね。百科事典を数冊そなえても、決定打は出て来ない程の深く広く多岐にわたつております。その中で釈迦牟尼世尊(略して世尊)は、インドの王宮の皇太子として御誕生、生老病死と言う人間の全ての人の遭遇する実相を見て、その中で力強く生きる道の発見に立ち上がられたのですね。当時の人間としての生き方の道程を四っに分けて教えておりました。一つは、学習期、二つには、家住期三つには、林棲期、四つには、遊行期。人としての生き方、それは先ず学習に在ります。人生八十年を四つに分ければ、最初の二十年は先ず学習の時期。それぞ、れ学ぶべき事柄は限りなくありますね。其の中でも基本的に人間とは何か、動物の中の一種ではありますが中でも心を持ち言葉を持ち感情を持ち知識を持って居る人間として生きると言う事はどうあるべきか、当時の方法として出家の道を取られますが、一応雑念を捨てるには的しても全ての人の道にはなり得ない。菩提樹の下に座して思惟し十二月八日終に法の世界との感應を成就されました。いわゆる身の命と自然法の壽との融合、生と死を超えた生命、永遠真実の壽 (イノチ)=(如来)の身の体験を経てしばし天地自然と共に生の歓喜、生きる喜び、壽(イノチ) 連なる命の世界、我人共に深い縁に生かされる存在。釈尊は立ち上がって真実の知識、生命の智慧の世界の伝道の旅に出られます。苦の因を示し、樂の因も又苦の因となるのは、凡夫の判断が無明と言う、試行錯誤の所産である事を示して、八つの正しい道を歩けと教えられます。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。正しく物を見、思い、語り、行い、歩み、励み、願い、落ち着く。実はその一つ一つについて詳しく深く述べて行かれます。一つ一つを静かに聞いて行けばそれは人間凡夫の眼や心や知識を超えた法の世界の物である事が知らされて来ます。お弟子達が増えて来て霊鷲山の山は聞法者で一杯になります。法は山にも村にも宮廷にも満ち満ちて居ます。仏道は我も人も共に生命の法を聞き開く外に無いと示して行かれます。聞く事無くして一人で知る事は不可能と言われます。もしも聞く事無くして知る事を得たとしても、それは個人的な独りよがりの域を出る事は出来ません。人間は知識欲に燃えて居ます。あれもこれも種々雑多、とても人生八十年では時間不足で間に合いませんね。もすこし若かったらなんて言ってみても後の祭り、愚痴に外在りません。生死無常、何時終わるか分からない命、何時終わっても悔いの無い生き方、それは今の事実に立って今を本当に生きると言う外にありませんね。今と言うのはどんな義(イワレ) があるのか、今は今、既に今、二度と無い今、刻々と移る今、あっと言う間も無い今、この今は、永遠の時と宇宙空間全体の力とによって私自身を生かしている今なんです。お経の中に今この身が生かされているは有り難しと説かれます。其の中で仏法を聞く事は尚難し、とあります。あれやこれやと心は走って、大事な事を見落とし、聞き落とし、何のために生きて来たのか分からずに終わってしまいますね。こんな歌がありましたね。子育ての終りし我に、何残る、子は嫁の物、孫は子の物。私の物は私そのもの。自己自身。清沢先生が自己とは何ぞやと問うて行かれた。それは真実に出会うべき責務を負うて居る自体といわれます。その心は自身の深い深い奥底から突き上げて来る力、働きを言いますから、胸に手を当てて心臓の音と声をきけば果てしない時を超えて我に呼びかけている声、真実なれよ真実に生きよと呼びかける我は、真実に生きる事を命とする如来なり、汝と共に生きて既に十劫(計り難き時)我が呼ぶ声が聞こえたとすれば我が願い九分通りに達成したと言える。その名を南無阿弥陀仏と言う。中国のチャンウェイさんは、ナンアミトフォと呼ばれます。南無阿弥陀仏は真実の法を表す名。それを親鸞聖人は功徳大宝海と讃えられます。南無阿弥陀仏と称えれば、無上大利の功徳を得る、と、釈尊は大無量壽経に説かれました。それを親鸞聖人は南無阿弥陀仏を称えれば不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てり。と和讚に詠って居られます。先ず何よりも仏の教えを聞く事が真実に生きる第一歩でありますね。