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熊本県長洲町安正寺
エコウ1月号第301号
2001年1月1日発行
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念仏の大道
念仏は人の身に人の心を開く
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| 二十一世紀が始まりました。今年は住職就任以来満五十年になります。昨年から五十回忌法要は住職としてお葬式の悲しい御縁を戴いた忘れられない方々の事を思い起こされる一年でありました。生と死、一昨年生死の問題として慧光紙上に連続掲載させて戴きましたが、人間の問題として第一に上げられるべき物ですね。この頃は、若い人達が簡単に自殺、殺生、傷害に走る行動は、生と死の問題がはっきりとした、思慮、思索、思考の中に入っていないと言う事ではないでしょうか。お釈迦様が求道の出家に立たれたのは今在る生の中にある死を見つめられた所にあります。いつ終わるとも知れない生の意味を明らかにし、真実に生きる道を確立する事にありましたね。仏教は仏の教え、仏は生死を超えて生きる道を自ら生きて人に伝える事を命とする相を言います。我も生き、人も生きる事を念じて行く道を仏道と言います。中国の善導大師は、一切の人々に告げると言う事を「一切往生人に申す」と言っておられますが、全ての人は皆、生きて往くべき人であって、その道は此処に在り、と絶大なる自信をもってお示しになるのが、称名念仏の道なんですね。その道を日本の聖徳太子を始めとして、以来の日本の高僧は皆称名念仏を勧められましたが、特に法然上人は念仏一つと言う浄土宗を開き、人間そのままに一人も漏れず生ききる道を示されたのでした。そして其の道こそ特に人間の特質である身体と精神と念願とを成立せしめる道である事を浄土真宗として親鸞聖人は確立されたのでした。特に明治期の清沢満之師は我らは生のみが我らに非ず死も又我らなり我らは生と死を併有する者なりと言い真に生きる道を示されます。法話の前に皆で唱和する三帰依文の始まりは「人身受け難し」ですね。人間として生きる身を賜る事は象が針の穴を通るよりも尚難しいと表現されます其のような難事を超えて与えられた身。その身を又日夜を問わず養育された母親の恩。周囲の人達の思いを受けた身として、そのまま我が思いだけで生きて行って良いものでしょうか。老若男女を問わず、生きている人は皆生命の同一線上に立っています。生命の誕生から今日まで、同じ時を経て来た私達ですね。善導大師は、「久遠のいにしえから六つの道を生まれたり死んだり、幾度も繰り返して来た私達です」と、お示しになります。六つの道と言うのは、六道の事です。六地蔵と言って、お地蔵さんは六体いらっしゃって六つの道の曲がり角に立っていらっしゃいます。その六つの道が、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の世界を表します。道は歩く所。行く所。行ずる所。生活の相を表します。地獄、それは闇。どんな闇。闇は無明、明かりが無い、無知。何に無知。生命に無知なんです。命の尊さ、それをお釈迦様は「天上天下唯我独尊」とおっしゃいました。天にも地にも唯我は独りにして掛け替えの無い真実の真理を体得する、つまり智慧の光りを身と心に灯す使命を掛けられた身と言う事ですね。つまり一人も残さず仏になるべき身と言う所に人の身があります。餓鬼は経済に無知である事を表します。平成十三年度の予算案が成立して、余野両党が討論をして、正しい、間違っている、とテレビで論を戦わしておりましたが、大学に経済学部があって論理を究めてますが、本当の経済は経世済民にあります。人々が安心して生きる国土を作る所に経済学があります。平成十二年の一年を漢字一字で表現すれば「金」と言う事に収まりましたが。シドニーオリンピックの金を表すと同時に不況を表すマネーの金を表しているんでしょうね。もう一つ金にしなければならない物があります。これも後善導と言われる法照禅師のお言葉ですが、瓦や礫を金にする様な働きのお念仏で、私達の心を輝く金の様な磨かれた物にしなければなりませんね。それから畜生、畜生は傍生と言う事を表します。何かの側にいなければ安心出来ない。何かの傍らに居て生きる。誰かを頼りにして生きる。自立独立が出来ない。勿論人間はひとりでは生きる事は出来ません。皆さんのお陰、自然の恵み、私を生かしている身体のお陰、身体髪膚これを父母に受く。受けている私、私自身、それは心ですね。真の心を持って、この身を戴く、そこに初めて人の心をもった身として、生れ変わります。念仏は人の身に、人の心を開きます。 |
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