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熊本県長洲町安正寺
熊本県玉名郡長洲町腹赤 安正寺
エコウ8月号第285号
1999年9月1日発行
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生死の問題 |
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4部 連載 |
歎異抄第二章に、各々十余ヶ国の境を越えて身命を顧みずして来らしめ給うおん志しひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。此処にこうしてお互いに居ると言う事は、一泊研修会にこうして居ると言う事は、何の為か、それは往生極楽の道を問い聞く為である。十余ヶ国の境を越えて、親鸞聖人の前にたどり着いたお同行達は、それこそ命懸けで、関東から京都迄はるばると尋ねて来たんですね。その人達の目的は、聖人に会いたい一心でしたが、ただそれだけでは無くて、真実の宗教を明らかにしたいと言う事だったんですね。つまり自分の人生を本当の物にしたいと言う外になかったんですね。当時の人ばかりで無く、現代の私達も、それぞれ年月を重ねながら、今日を迎えておりますが、一人一人それぞれいろんな世界を通って来て、人生とは何か、生きるとは、どういう事か、先程の坊守の一言「いろんな事がありましたねー」でも、過ぎ去った事を回顧するばかりでは無くて、その一つ一つを意義あらしめるポイントを持たなくてはなりませんね。それが、「往生極楽の道を問い聞かんが為」の一言なんですね。どうしたら真実の道を聞く事が出来るか。それは真実の世界を明らかにして下さった方の教えに耳を傾ける外に無いでしょうね。たとい八万の法蔵を知るとも、と蓮如上人が仰せられます。どんなに知識は豊富にあっても、世界の実相と自身の真相を知らなかったら、何も知らない者と言っても同じ事だとおっしゃるんですね。
私達の知識は知恵と言って経験の上に積み重ねられた物、それは一方的な見解に過ぎません。一切の角度から見た眼に因る知識、それを真の知識(智慧)と言うんですね。その(智慧)を信心と言います。蓮如上人が信心をマコトノココロと読むうえは、凡夫自力の迷心に非ず、全く仏心なり、とおっしゃいます。信心は真実の世界と真実の生き方を示して下さる教えなんですね。それを仏法と言います。法は仏を生み出すんです。法から生まれた仏が法を説いて下さる、その法を聞く事に依って目覚めた法の中に生きる人間となって、何時終わるかわからない人生を、永遠のルールに従った道に立つ事によって悔い無き人生を最後まで全うする事が出来るんですね。それを仏法と言います。仏を生み出す法。仏は覚者目覚めた人、目覚めた人間を生み出す働き、それが真実の教え、それを法と言います。法と言うのは、十方微塵世界に満ち満ちている力(シャクテイ)だからです。この力、全てを生かす働きだから如来とも言い、他力とも言います。石原東京都知事は(自力)五木寛之は(他力)真言宗のあるお坊さんは、もう一つ法力が要る、とおっしゃってましたが、その法力を他力というんです。人間の知恵才覚分別の世界を自力と言い、自然法爾の世界を他力と言います。中国の善導大師は仏の教えに従って行けばありのままそのままに自然の世界に帰らして頂く。
その自然の世界こそ阿弥陀仏の世界であるとおっしゃいますね。法と言うのは、サンズイヘンに去ると書きますね。水の働きを表します。水は潤いと生命を与えます。脱水状態は死を表します。仏法は生命を蘇らせ、生きる力を与えます。この頃男性の平均寿命が七歳程減ったと報道されておりましたが、それは責任ある男性の自殺が多く見られるからなんですね・死をもって責任を取ると言いますが浅はかな分別に過ぎません。自身の分別の苦痛からの逃避で解決する物ではありません。清沢満之師はおっしゃいますね。我他力の救済を念ずる時、我が処する所に光明照らし、我他力の救済を忘るる時、我が処する所に暗黒覆う。と、仏法は真実の智慧を与えます。真実と言うのは、清浄であり、平等であり、無我である。清浄であり、平等である為には、無我でなければなりません。我有りと言い募る人間には到底無我にはなれません。無我に成れない存在ならば、清浄も平等も自力では成立する事は不可能です。その不可能を可能にする働きこそ他力と言われます。親鸞聖人は他力とは本願力なりと仰せられます。本願力は迷いの中に生きて、生きる意義と生きる力を失った人間に、生まれた意義、生きる意味を与えて、どんな状況の中でも、自己自身を失わず、生きる力を頂いて生きる、これを歎異抄に、仏の教えを頂く者は碍り無き道を行く、と述べられますね。
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