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熊本県長洲町安正寺
エコウ11月号第287号
1999年11月1日発行
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生死の問題 |
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6部 全 連載 |
| 私達は阿弥陀様に守られていると言う事を良く言いますが、何を守られて居るんでしょうか。
ケガをしないように、とか、事故に逢わないようにとか、一般的に言うんですが、そうでしょうか。第五祖の善導大師が二河白道の譬喩に、信心を守護せしむ、とお示し下さってあります。信心を護
って下さるんですね。つまり信(マコト)の心、真の精神、信心と言うのは、阿弥陀仏の心、清浄、平等の心、大慈悲心ですね。それは、一切を我とする心です。心ばかりではありませんその用(ハ
タラキ)を、いかなる境遇の中にも喪失しないように、護って下さってあるんですね。その事に私達が気づかせて戴くのを、また信心とも言います。それを摂取不捨(セッシュフシャ)と言います。
私達の心は、つごうの良いものは取り、つごうの悪いものは捨てますね。差別する心の中に生きて居ます。何故かと言えば、我(ガ)が有るからですね。我とと言うものが無ければ、差別の心は起き
ようが無いんです。これはもう十数年前の事ですが、ご門徒のお家のお祖母さんがありまして、近所の人が来ては、色んな噂話しをもって来て話すんですが、そのお祖母さん何を聞いても、ニコニコ
して「ヘエーほんなこったい」言って、頷きながら話して居る人と、話されて居る人とを自分自身に引き受けながら耳を傾けて聞いていらっしゃる姿には後光が光って居るようでしたね。わざわざも
って来て呉れたウワサ話しを、我が身への贈り物と受け取って、一つ一つをそうだなあ、そうだなあ、と確認する。確認するには、信と言うものがなければ確認は出来ません。疑いの心では、確認ど
ころか、不信となり不審となって畏(オソレ)が出てきますね。一番究極の畏れは死ですね。しかし自分で自分の命を絶って死んで行く人がありますが、それは自分の思いだけで生きているからです
ね。現実の苦から逃げる路として死を自分の思いで選び実行するんでしなんでしょうね。 生命には力があります。力(シャクティ)、生命力生きよ、と言う力。その力によってこの世に生まれ今日
まで生かされているんですね。そこに有(ウ)と言う私の存在があります。有(ウ)と言うのは涅槃経に一切衆生悉有(ウ)仏性と示されてあります。一人も残らず全ての人に阿弥陀と言う壽(イノ
チ)に生かされている存在です。一切衆生に有るのは何か、それは仏性である。仏性とは何か、仏の生命です。仏の生命は信心です。信心と言う事はもと真実を表す言葉ですね。信心と言う言葉と真
実と言う言葉の原語は一つです。あの人この人と、姿は見えます。しかしその見ええるものは変化し続けるものであって、本当に有(ウ)と言えるもの、変わりなく永遠に用き続ける真実の壽(イノ
チ)、それは見えませんね。でもその用きで生かされているんです。壽と言うイノチ無くして命と言うイノチも有りません。道元禅師は一切衆生有るは仏性と読んでおられますね。有るのは仏性であ
る。私達がもって居る思いと言う物は、生まれては消え、消えては現れる泡沫のような物ですね。見るも聞くも、我が思いで見聞する物で確かなものは一つも有りません一生夢を見て生きて居るよう
な物ですね。いかに未来学と言う物が有っても、誰もバブル経済の破綻を予測した者があるでしょうか。一抹の不安は持っていても確かな確信を持って今を生きた人は希であったわけですね。私達が
思いもかけない、見る事も出来ない、私の奧の奧に有る生命の本質を「其の」(ソノ)と言うんです。この生死(ショウジ)を超えて用いて居る力それを本願力と言うんです。本願力、それは真実に
生きよと言う用きですね。作家の水上勉さんが言っておられましたが、今まで努力して生きて来たのは、つまりは心筋梗塞で倒れて不自由な身になると言う事でした。今ではパソコンで文章を記して
いるけど、手で打つのでは無くて、言葉をそのまま打って呉れる音声自動変換の機械で製作していて、一度は意識不明の状態から今日あるのは、不思議の中の不思議であり、これは全てお他力様であ
りました、と言っておられましたね。お他力様と言う事は本願力の事を言っておられるんですね。他力と言うは本願力なり、と親鸞聖人はお示しになっていらっしゃいます。如来の本願力で生かされ
ているんです。
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