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熊本県長洲町安正寺

エコウ10月号第286号
1999年10月1日発行

生死の問題

5部 全 連載 

 観無量壽経の中に韋提希夫人はお釈迦様に向かってこの世は地獄、餓鬼、畜生が充満しております。こんな世の中で良いのでしょうか。こんな世の中は見たくも、聞きたくもありません。本当の世界があったら教 えて下さい。と、懇願しておりますね。そこから観無量壽経の教えが始まっております。つまりこの世は苦るしみ悩み悲しみの出来事が次から次と重なって、皆困り切って居ります、と言う事なんですね。その世界を越えて、碍り無く生きる道。それは生死を超えているまことの命の世界に目覚める事ですね。生前死後と言う言葉がありますが。生の前、死の後そして生と死の間。その全体を貫いている真の生命。南無阿弥陀仏のいのちの世界に目覚めてこそ、自由無 碍の生活が与えられるんですね。
 中野先生はいつもインドに旅していらっしゃいましたが、わしが死んだら骨を粉にして、インド洋に撒い てほしい。と言ってらっしゃいましたが、そんな心配 はいりませんね。一切法界南無阿弥陀仏の国です。どこにあっても同じ念仏の世界です。阿弥陀経に倶会一処とあります。何処にあっても一処の世界に会えると言う事なんですね。昨日も座談会で出ていましたが、臓器移植の問題ですね。自分自身の身体、これは自分自身の物だから、人にやったり、貰ったりする物では無い。とおっしゃった方がありましたが、そうでしょうか。親鸞聖人は私が死んだら、鴨川に流して、魚に食べさせてくれ、と、おっしゃったそうですね。魚を食べたこの身、魚
が食べたいと言えば、食べさせてほしい、この身は仮りの身、いのち終わったら借り物のこの身は法(ホウ)の世界にお返しすべき物ですね。法の世界にお返しすると言う事は、信心にお返しすると言う事で、生命の本質にお返しすると言う事です。本当の壽(イノチ)にお返しすると言う事です。必要だと言う人があればあげても良いんじゃないでしょうか。 じゃー貴方は人から貰いますか。とたずねられて、いや今は貰う必要はありません。ほしいと言う人があったらあげてもいいんでしょうね。でもそれは死んでからの問題です。しかし親子、近親の方たちの中で生 体間移植が実施されておりますが、これはギリギリ双 方の生存が可能な場合に限られますね。そこに身と言 う物の存在観の問題ですね。そのままと言うそのと言う物の名が南無阿弥陀仏で すね。南無阿弥陀仏は信心、信心を(マコトノココロ) と読 み、清浄心、平等心を表します。いわゆる無我の心で す。自我にとらわれない清らかで差別の無い大慈悲の 心を信心といいますね。だから信心を戴くと言う事は 私の生命の奥底にある真実の壽(イノチ) に目覚めると 言う事ですね。宗教の本質と言う所に記しておりますように、信仰の問題。鰯の頭も信心からと言う言葉が ありますが、何事も一心に信ずれば御利益があると言う事なんですけど、他者を信じ頼む心を信仰と言うんですが、今日の知識人は、物よりも、自分の理性、知 性を信じている人が多いようですね。理性と言い知性と言っても個人の経験内容の外にありません。
 個々の人間関心によって得られた知識、それは一部分の関心理解の外にありませんから、物の奥にある本質そのものの経験理解には至らないですね。表面的経験、五感六感、心身の感覚による理解ですから、各異各別、各々違った理解を得て、我を是とし、彼を非とする人間分別の世界から、闘争排斥のはてしない苦海が現出してきますね。その極まりない人間世界の営みを悲しみ、生きとし生きる全てのものを平等に慶びに生きる世界とシステムを完了して、その中に生まれしめたいと言うのが、阿弥陀仏の因位、法蔵菩薩の五劫思惟の本願ですね。本来的根本の願い。それは既に全生命の中に浸透し実働し作用しております。その声を南無阿弥陀仏と言うんです。親鸞聖人は歎異抄の最後に、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずの事皆もってそらごと、たわごと、まことある事無きに、唯、念仏のみぞまことにておわします。とおっしゃってますね。その南無阿弥陀仏を天親菩薩は帰命尽十方
無碍光如来と戴かれました。天地に満ち満ちている、真実の壽(イノチ)の働きを戴き、、尊び、従い、生かされる事こそ永遠真実の人の道であると示されます。