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熊本県長洲町安正寺

エコウ12月号第300号
2000年12月1日発行

三部の経典

最終回 全 連載 

 浄土真宗は大無量壽経にお示しになる弥陀の本願に依って法蔵菩薩が永劫にわたっての行成就して浄土が完成し同時に阿弥陀仏となられ、その願が成就して南無阿弥陀仏と名告る仏となられて、お互い凡夫をお呼び通しになられて既に十刧の時が経ったと、お釈迦様がお説きになった所にありますね。阿弥陀仏の浄土は本願成就に依って十方世界の無量の諸仏が「阿弥陀仏が真実の仏であり、そのお心とお用(ハタラキ)きは、いかなる仏をも及ぶ事はないとして、全ての仏様が誉め讃えて阿弥陀仏の願と行(ギョウ)とを戴きなさいとお勧めになるんですね。その事をお釈迦様は阿弥陀経にお説きになりました。舎利弗(シャリホツ) よ何故阿弥陀仏と言う名となられたかわかるかね。阿弥陀仏は壽(イノチ)が無限であり光がまた無限であると同時に其処に住む者達も同じ様に壽と光が無限であるから、阿弥陀仏の壽命と光明が無量であり、その国が無量であり、その国に住む者もまた無量であるから南無阿弥陀仏と名告られたのである。とお示しになりますね。壽は慈悲、光は智慧、慈悲と智慧のお働きを阿弥陀仏の国に生まれた人に自然に必然にお与えになるんですね。全ての仏様方が共に讃えて下さる阿弥陀仏の国には小さな善根功徳では到底行く事は出来ない。と、お釈迦様はお説きになります。真実の国に行くには真実の身と心を持たなければなりません。真実の心と言えば阿弥陀仏の本願と言われる願心に超え勝れたものはありません。そしてその行は真実心をもって永劫と言う永い間行ぜられた行に超えるものはありませんね。阿弥陀仏の国と仏と人は同じ功徳を持ったものですから、南無阿弥陀仏のお力に依る外に道はありません。だから仏力、他力、本願力に依る外に真実の救いはありません。だからお釈迦様は阿弥陀経に一心に南無阿弥陀仏とお念仏しなさい。一日でも二日でも三日でもお念仏して日暮らしをする事です。と、お説きになりました。それは観無量壽経の中で真実の国の阿弥陀仏を見奉る方法が説かれますが、阿弥陀仏を見ると言っも凡夫邪心の眼では見ても見えませんね。濁った目では純粋な物は見えませんね。真実は目に見えない働きです。見える物は見る人の心の反映に過ぎません。観無量壽経に、十六通りの観かたが説かれますが、その説法を聞きながら、在るべきものでありながら、そうでない自分が知らされてきます。でもそこに説かれる道は、そうでなければならないと知らされます。そこに、真実の法の中に真実でない自己が現に生きて在る事は、真実の法の中に生かされている事をはっきり知る事ができます。観無量壽経の最後に一切の者を摂取して生かして下さる仏こそ南無阿弥陀仏であるから、南無阿弥陀仏の名を称える事を忘れてはいけない。称える事こそ真実の壽(イノチ) に生かされている事の証明ともなり、自信の根底ともなります。大無量壽経の終わりの方でお釈迦様は、南無阿弥陀仏と言う名を聞いただけで、無上大利の功徳を戴いた者と言うべきである。と、説かれます。そして大無量壽経の最後に、この教えこそ末法の世の道であり。私の名において、この教えであるこの経をいつまでも人が居る限り残して置きたい。と念じながらお説きになりました。末法と言うのは真実の見分けがつかなくなって来る時節を言います。真実の見分けがつかないから、お互いに自分の考えを大声で主張する外に方法を知らないんですね。大無量壽経の事を別の経典では過度人道経(カドニンドウキョウ) と題されています。つまり、人が人として生きる道は此処にありと、力説されているものなんですね。浄土の三部経、弥陀の三部経は、いかなる時代、いかなる所、いかなる人をも漏らさず、真実の大道に立たせて下さる働きをお示し下さった経典です。
お釈迦様八十年の生涯の中に説かれる経典の数々は二つに分ける事ができますね。一つは自分で努力して永遠不変の真理を体得する方法を説く経典。も一つは永遠不変の真理を体得された方のお説を聞いて、実はその永遠不変の真理は一人一人の命の中に働いている事実であったと知らされる経典。私達の三部経は南無阿弥陀仏の働きの真っ只中に生かされて居る事実を納得して知らして戴く経典なんですね。もっともっと深く尋ねて戴きましょう。