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熊本県長洲町安正寺

エコウ11月号第299号
2000年11月1日発行

三部の経典

11回 全 連載 

 過去と現在と未来、これを三世と言いますが、三世と言っても実感がありませんね。今日をより努力して今日以上の物を作り上げようとしますが、思い通りになるものでもありません。だからと言ってホッテ置くわけにもゆきませんね。努力こそ今日の生きがいと言うものでしょうが、何をどのように努力するか、それはそれぞれに自己決定しなければなりませんが、決定する程の見通しと方法がわかりませんね。でも今日と言う日は刻々と移り重ねられて行きます。此処に寸分も疎かに出来ない事実がありますね。今日の社会の混乱、人心の荒廃、科学技術の推移等善悪織り混ぜて身と心の安定を失いながら生物全体の破壊へと移行している危険性を指摘する人達が紹介されて来ていますね。それをくい止める力は、たった一つ、現実只今にはたらいて居る大いなる誓願、人間一人一人の命の中に活動している願いの力、願力とも言い念力とも言いますが、その実践を促し続けているシャクテイ(力)があるんですが、外なる知識に目を奪われて内奥の願と実践を忘れてしまって居るんです。その願と実践こそ親鸞聖人が顯らかにして下さった南無阿弥陀仏の太行と言う事ですね。二九才の親鸞聖人が身をもって顯かにして下さった浄土真宗、それは雑行を棄てて本願に帰すと言う事でした。和讚に弥陀成仏のこの方は今に十刧をへたまへり、法身の光輪きわもなく、世の盲冥を照らすなり。とありますが、既に久遠の古へから今日まで照らし続ける阿弥陀仏の光、いわゆる十方世界の真理を究め尽くされて真理そのものとなって、一切衆生の上に具現しようとする願と実践の声が南無阿弥陀仏と言うお名号なんですね。だから親鸞聖人のお念佛は、またその教えである浄土真宗のお念仏は十刧以来の阿弥陀仏の願いと実践を身に体して、それに応えて歩まして頂く所に真宗の生活があります。過去と言い現在と言い未来と言うも、それは一人一人の知識に依って画いた妄想の外になかった事を法身の光輪によって知らされるんですね。法身と言う事は科学的には宇宙と言う言葉もありますが、それも限界を持った、考えられた知識の世界であり三界の中の思惟に過ぎません。天親菩薩がお示しになる、尽十方無碍光の世界広大無辺にして究竟する事虚空の如し、親鸞聖人は自力の分別を離れて一切知を離れた一切智、いわゆる人間の知識を照らし本来の智慧に転換して下さる光りとしての真如活動の奔流を身と心の中に感動して受持すする体現、それが親鸞聖人がお示しになる「称無碍光如来名」お念仏なんですね。それを蓮如上人が唯口先ばかりにお念仏しても覚束無い、お念仏の義(イワレ)を聞く事が肝要であるとおっしゃいますね。親鸞聖人はそのお念仏の義(イワレ)を徹底して顯らかにして下さいました。お念仏は如来の本願が成就して一人残らず全ての人が真実の世界に眼を開いて過去現在未来の生活を離れて過去未来現在の中にある事を知り未来現在過去の真実なる如来実働の中と眼を開く時人間の分別が如何に真実の世界に逆行しているかが知らされます。未来現在過去と開かれた世界に生きる事を、往生と言います。憧れの浄土を未来に画いていかに努力しても、終に力尽きて他力を頼む外ありません。死ぬ迄自力分別の尽きない凡夫の迷いに目覚め新しい如来の真実心を知らして頂いた所を命終と言い又往生と言い本願の真実心に出会い自力の思慮分別が如何に真実の行体に違脊しているかを知った時、己が分別キッパリ止めてと言う妙好人の言葉のように自力心を固執する眼の命が終わり、真実の如来の仰せに従って生きる往生生活がはじまるんですね。往生は新しく輝く命の中の日暮らしを言います。親鸞聖人は南無阿弥陀仏をとのおればこの世の利益きわもなし、流転輪廻の罪消えて、定業中夭(ジョウゴウ チュウヨウ)のぞこりぬ、を初めとして十五種の現世利益和讚を著して現世に於ける功徳利益をお示しになっていらっしゃいます。そしてまたお念仏の利益は明日の事ではなくて、今日只今に如来の真実心に支えられた正定聚(ショウジョウジュ)不退転(フタイテン)の位置を持った世界に生きる事を教えて下さってあります。 蓮如上人はその事を仏法には明日と言う事はなきなりと仰せになって、如来真実の現場である今日に生きる事を浄土真宗とお示しになりました。