ekou
line

熊本県長洲町安正寺

エコウ10月号第298号
2000年10月1日発行

三部の経典

10回 全 連載 

 その南無阿弥陀仏の如来様とはどう言う仏様なんでしょうか、その事をくわしく説かれたのが仏説無量壽経上下二巻の経典ですね。その経典を大無量壽経と言いまた大経とも言います。大経は上下二巻からなっていて、上巻は如来浄土の巻、下巻は衆生往生の巻、仏と凡夫の世界が隈無く説き尽くされています。仏と凡夫の世界を見極める為にもこの経典を詳しく戴く事が大切ですね。 いつもお釈迦様の側にいて世尊の説法を一言漏らさず聞いていた阿難さんが、アット驚くばかりに輝きに満ちた、明るく力強く柔和で尊厳に満ちたお釈迦様のお姿を見て身と心をあげてお釈迦様に言葉をかけたのです。 お釈迦様貴方は今ここに仏様でいらっしゃいますね。仏様は過去未来現在の三世を貫いて唯一つの清浄なる世界に住していらっしゃると思います。真実の世界は、人間の変化し続ける世界を包んで此処に世界ありと、呼びかけながら稀に其処に生きていらっしゃるお姿に私は今遇う事が出来ました。過去現在未来と移り変わっていると思っている私達に今、過去未来現在と三世を貫いて唯一つの清浄なる世界を示される身としていらっしゃる事を思います。三世を貫く真実の世界をお説き下さい。今私はその事を聞きたいと思いますその時お釈迦様は光りに満ちた顔を和らげ、アア阿難よ大事な事を尋ねてくれたね。今私もその事を憶っていた所でした。人間の生涯はいつもお話しして居る様に、今の一息にしかないんだね。十年二十年と過去を振り返って、これからもその様にあると思っているけれど、今の一息が何かの縁で断たれればそれっきりなんだね。見る事も触れる事も聞く事も思う事も出来ないとすれば、今見、聞き嗅ぎ語り触り思う事の真実性を明らかにする事こそ生きると言う事ではなかろうか。ではその六つの感覚は正しいものだろうか。名誉と言い、地位と言い、心の思いと言うも真実なるものを抱いているだろうか。それこそ人間として思い知らなければならない大事な事なんだね。永遠に変わりなきもの、それはいつでも何処でも変わりなく働き続けて、その働きに依って三世を感じ認識し行動するその根源を法と言うんです。その法に遇えば、自我の今日を越えて三世真実の今日に生きる事が出来るんだね。今その事をお話ししようと思っていたんだが、阿難よそなたが今口を開いてくれたので、真実の法を説く時が来たんだなと思った所だ。よく聞いてくれよ阿難。お前は十方衆生を代表する一人だよ、阿難よ、この法を善く聞く事が出来れば三世を貫く一切の衆生が、いつ何処の誰であろうとも浄土真実の世界を戴いて生きる事が出来るんです。それは私と同じ様に同じ世界に同じいのちを得て同じ様に呼吸し生きる事が出来るんだよ。その言葉に阿難は三世十方の衆生をわが身に感じ三世十方の衆生の為に説かんとされる眼前の釈迦牟尼世尊の上に真実そのものの働きを感じ「ハイ世尊一心に聞かして頂きます」と答えずにおれなかったんですね。法に遇う事は教えを聞く事ですね。教えが法で法が教えであると言う事が大無量壽経の特異性であり真実性であり、他の経典との違いを表し、その教えこそ如来真実の信と行とが述べられていると言う事、それは衆生と如来との違いを表します。衆生と言うも如来と言うもイノチの違いにあります。「命」のイノチに生きる者を衆生と言い、「壽」のイノチに生きる相を如来と言います。寿命と言う私達のイノチは如来のイノチと衆生のイノチに生きる事を表します。如来と衆生は別にある物ではありません。衆生は如来によってあり、如来は衆生の所に用(ハタラク)いていらっしゃいます。二つの実感を得る時法に遇うと言う事が出来ます。お釈迦様が弟子達に『捨命住壽』とお説きになりました。人間の知識による生活を離れ、如来真実の(壽)イノチにより説かれた智慧により生きよ、と諭されるんですね。親鸞聖人は「雑行を棄てて、本願に帰す」と、浄土真宗に帰入した相を表されました。虚妄分別の自力の計らいを捨てて、清浄真実の如来本願の信行に従うと言う事ですね。浄土真実の宗教は三世十方を貫いて一切衆生の上に実働して下さってある南無阿弥陀仏のお念仏のお力によって過去と未来の一切を集約する現実只今を生きると言う事ですね。