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熊本県長洲町安正寺

エコウ9月号第297号
2000年9月1日発行

三部の経典

9回 全 連載 

 観無量壽経は、牢獄の中で、生も死も自らの判断では左右出来ない女人である王舎城の皇后韋提希(イダイケ)に対して説かれた経典ですね。女人でも国家大王の婦人ですから、教養も知識も並外れた有識者であり権威者でもありますね。その様な知識でも権威でも計る事の出来ない真実の道を尋ねると言う意味があります。実はそこに仏に願われている人間存在が表されています。今日現代の人間は、自力作善(ジリキサゼン)の世界にドップリつかっていますから、自分の力(判断)で間違いなく生きて行けると思って居りますから、顧みると言う事がありません。善とか悪とか言う事さえ眼中にはありませんね。何もかも知って居ると言う自己至上主義に立っていますから、自分の思慮分別に立って、その他に思慮分別の世界の持ち合わせがないのです。何故か、それは自己を常に照らす光りに遇う事が無いからですね。光りは智慧を表します。光りは闇を照らし闇を闇と知る眼を与えてくださるのです。それを如来の回向と言います。回向は頂く物です。頂けば光りの世界が開かれて来ます。自己を生かし続ける命の世界が見えて来ます。つまり光明の世界と無明の世界、苦と闇の世界と喜びと光りの世界が共に自己の中に与えられますね。光りと闇、苦と喜びの世界の全てを知る身となれば、世界は開かれ広がり広大無辺の世界に目覚めて、自己の思慮分別を越えた世界からのメッセージを聞く身となつて、少々の事には動じない覚者の世界が開かれ其処に住む住民となりますね。それを往生と言います。往生は生きて往くと言う事です。かって長洲の広報に往生と言う事を行き詰まってどうにもならなくなった状態と出ていましたから訂正を申し出て、正しい往生の意味の一文を掲載して頂いた事がありましたが、一人一人の見解を平等に正しく自分自身で見直す事が出来る鏡が必要になりますね。自力分別の見解を写す鏡、真実の鏡、それが仏説と言われる経典の意義があります。 実は此処に観無量壽経の重大な謂れがあるんです。観無量壽経を親鸞聖人は観経と言われます。観無量壽経を略して観経と言われるのでは無いのです。つまり観を教えて下さる経典と言う事ですね。観と言うのは、見ると言う事です。見ると言う事が人生生活の出発であり内容であり終結でもあります。人間生活の道として八つの正しい道を八正道としてお釈迦様はお説きになります。見・思・語・業・命・進・念・定の八つですね。正見、正思、正語、正業、正命、正進、正念、正定の道。道は生活を表します。正しい生き方ですね。その正しい生き方の第一が正見、正しい見解が正しい生き方の基本になります。皆一人一人自分の思いで物事を見ていますが、物事の真実を見ているでしょうか。正しく物事を見る方法をお説きになつたのが観無量壽経ですね。正しく物事を観る事が出来れば、正しい人生観、正しい世界観、正しい人間観が生まれて来ます。中国の善導大師は要門と示されます。肝心要(カナメ)と言う事ですね。この教えの門を潜る事によって人間としての道が開かれてきます。不安なる道、閉ざされた道、一寸先は真っ暗な道を、明るく正しい道に転換する働きとしての経典それが観無量壽経の教えです。韋提希夫人はお釈迦様にお願いします。私は阿弥陀仏の国に生まれたいと思います。他の仏様の国も立派な国と思いますが、阿弥陀仏の国に生まれる為の道をお説き下さい。どうしたら善いでしょうか。その言葉が終わらない中にお釈迦様は柔和なお顔になられて、阿弥陀仏の光りの中にお釈迦様も韋提希夫人も包まれて共なる世界が開かれてきたんですね。それを他力本願と言います。阿弥陀仏の願いの働きが現実となって人の心に願いを起こして下さったんです自己を知らない自己至上主義の人の中からは出て来ない願いなんです。先日全く知らない人から電話が有りました。年輩の男性の方のようでしたが、仏壇に大日如来様をお祭りしたいと思いますがと言う質問でした。真言宗の方ですか、とお尋ねしましたらイイエ真宗の者ですと言う御返事ですね。だったら阿弥陀如来様を御本尊として下さい。何宗であれ全ての人を護り育て生かして下さる仏様、そして今現に実働して下さってある仏様、そしてまた全ての仏様が心を一つにして讃嘆しお勧め下さる仏様は南無阿弥陀仏の如来様ですね。