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熊本県長洲町安正寺
エコウ8月号第296号
2000年8月1日発行
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三部の経典 |
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8回 全 連載 |
| 韋提希夫人の前に立たれた釈迦牟尼世尊。聖道自力の教法を説いていらっしゃった霊鷲山の山に多くの力量あるお弟子達を残して、女人である、苦悩の中にあつて死を前にして道を聞く事も出来ない凡夫の身に開かれた道を与える為に、その時をじっと待っていらっしゃったんですね。そこの所を善導大師は、生ある者何処にあっても、憂悲悩苦を免るる事無しと述べ。安心して生きる事の出来る所は何処にも無いとお示しになりました。それを親鸞聖人は、此処より他に安心出来る所は何処にも無い、とお読みになりました。今、此処に在る我。苦悩の中にある我。苦悩と言う事は、その事を解明せよと言う促しですね。今は永遠の過去を背負っている身。誰でもないこの身。その身の前に世尊まします。世尊は世に於ける尊いお方。道をお示しになるお方。一切大衆に平等に救いの道をお説きになるお方。現在の私達にとっては、既に道有りと言う事を表しております。聞くと言っても聞き方を知らず世尊の口の開くのを待つ他にありませんね。今の私達にとっては、世尊がお説きになったみ教えを一向に尋ねて行く他にありません。世尊は口をお開きになります。貴女の苦悩を除く法を説きましょう。その声を聞いた韋提希夫人は明るい光りに包まれたような安心出来る世界を実感しました。その時場所は違っても、同じ城内の牢獄の中に在ったビンビサーラ大王の身にも同じ如来の光りを感じ、お互いに心配し合う心の世界を発見し、平等に大悲し尽くされる南無阿弥陀仏の法を体感して、韋提希はその時阿弥陀如来のお姿を拝見したのでした。しかしそれはお釈迦様のお姿の他にはなかったんですね。それは以前お釈迦様から聞いていた南無阿弥陀仏の御本願と南無阿弥陀仏のお働きその物である事は疑いようもありませんでした。でも唯それだけであるならば奇跡の宗教と何ら変わる事はありません。そして実際に体感した韋提希夫人は其処に道ある事を確信しましたがそれを教えとして共に聞きたいと願ったんですね。お釈迦様に向かってお願いをします。世尊に遇う事が出来た私は果報者です。会えない人達は限りなくあります。過去にも現在にも、また未来の人達は尚更遇う事は出来ないでしょう。その人達の為にも、私は今一緒に聞きたいと思います。苦悩の中にあって道を知らず人を恨み自らを損ね、他人をも害して生きるこの世の人達の為にどうか阿弥陀佛を観る方法をお説き下さい。と懇願するのです。実はその懇願もお釈迦様を通しての阿弥陀如来の願いが表現されたんですね。ある高名なお坊さんが、死後の事を「今死んだ、何処へもゆかぬ、此処に居る」と、歌って居りますが、此処は何処か、阿弥陀如来のお働きの場所なんですね。その働きの内容をお説きなったのが観無量壽経ですね。無量壽佛を観ずる経典。阿弥陀様はどんな佛様か、どんな所にいらっしゃるのか、観る為には身と心を整える事が先決です。心の在り方、身の振る舞い、人間としての在り方を整える必要があります。釈尊は人間としての生き方から説き始められます。いのちを大切に、と、この頃しきりに言われますが、人間としてのいのちが忘れられていますね。この身を生み出して下さった親の御恩と、今日の身を存在せしめて居る環境と社会の御縁の尊さ。尊い御縁の真っ只中に生かされている身の生き方、それは正しい世界の在り方を知り、正しい世界の実現に協力し力を注ぐ、つまり現在の生の事実の尊さに謝する報恩の行に立つ、そこの所を親鸞聖人は「世の中安穏なれ仏法弘まれかし」と念ぜよと呼びかけ、自ら九十年の生涯を歩み続けられました。正しい道、それは仏道、仏道は大慈悲、大慈悲は阿弥陀如来の道。その阿弥陀如来を観る教えが観無量壽経ですね。その教えに従って無量壽佛を観て行く中に、実は既に深く身直に無量壽佛に観られている自分であったと気づかされて、帰依合掌して、称名念仏せしめられる処に、韋提希夫人と、その説法を聞いて居た過去、現在、未来の十方衆生の中の一人としての喜びを頂く事が出来て、親鸞聖人はそこの処を、お正信偈の中に「与韋提等獲三忍即證法性之常樂」と歌っておられます。観無量壽経の説法を今聞かして頂く時、世尊を前にして、韋提希夫人と共々に説法聴聞の中に居る一人としての自身を頂く処に時と処を超えた法界に生きる事ができますね。 |
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