ekou
line

熊本県長洲町安正寺

エコウ7月号第295号
2000年7月1日発行

三部の経典

7回 全 連載 

 親鸞聖人は、真実の教えは大無量壽経なり、と教行信証の最初の教の巻に示していらっしゃいます。大無量壽経の教えの中心は、本願であり、その本願の行(ハタラキ)が、お念仏でありお名号(ミョウゴウ) であるとお示しになります。本願を宗(ムネ)とし名号を体(タイ)とす。本願を宗とすると言う事は、如来の願いがいのちと言う事です。そして名号を体とすると言う事は、お名号、南無阿弥陀仏がいのちの行(ハタラキ)であると言う事です。だから南無阿弥陀仏は如来のいのち(信)の行(ハタラキ)なんです。弥陀の本願は四十八願と言って、四十八の願に依って成り立っています。第一の願から最後の四十八の願まで、私が本当の仏になったらこの四十八願のどの願も成就していて、もし成就していないと言う事があれば仏になったとは言えないと一つ一つの願に誓いを立てていらっしゃいますから、もし阿弥陀仏がいらっしゃるとしたらその四十八の願は既に成就していると言わなければなりません。その願の第一は、私の国には地獄・餓鬼・畜生は居ないと言う願ですね。私達の住んで居る世界は、地獄(極苦=憂・悲・悩)の世界。餓鬼(極貧=不足不満)の世界。畜生(極闇=無明・無知・困惑)の世界。観無量壽経の教えを戴く主人公である王舎城の皇后であるイダイケ夫人はたった一人の息子(皇太子)に依って夫(国王)は殺され、夫人自らも捕らえられ牢獄に閉じ込められ命さえ奪われかねない状態の中で、ただ一人自分自身を見つめても、手も足も出ない今の身に残された道はただ一つ、何としてもお釈迦様に会いたい、と言う事でした。お釈迦様も王舎城での出来事の次第を御存知でしたので、お弟子達を山に残し阿難(アナン)目蓮(モクレン)を従えて牢獄の皇后イダイケ夫人の前に立たれました。そのお姿を見た夫人は驚きと喜びと身の羞恥心とに(アアお釈迦様)と言ったまま言葉もありませんでした。お釈迦様の静かな穏やかなお姿を目の前に拝して、牢獄の中の惨めな自分の姿を見た時、この状況は何処から来たのか、何もかも信じられなくなった。一心に国のため、王家の為、夫の為、子供の為と思って身を尽くして来た。それがただ一人牢獄に閉じ込められて、助け出してくれる者は無い。アアこの世は地獄、餓鬼、畜生の世界であって、人の世では無い。三つの悪道に満ち満ちている、こんな世にはもう居たくない。聞きたくも無い、見たくも無い、自分を取り巻く環境の劣悪さに身震いをし、自分を牢獄の中に閉じ込めた息子も許せないが、その息子を唆したお釈迦様の弟子であり、またお釈迦様の従兄弟であるダイバはなお許せない。お釈迦様を前にして何を言ったのか自分でも分からなくなり、恥ずかしさと惨めさと悲しみと怒りとが交錯した言葉(愚痴=無知・無明)は、誰も止め様もありません。お釈迦様もじつと聞いていらっしゃいました。何処でどう口を挟んでも、すべて自己自身の中から出ている事に気づかない限り、自己自身の解決にはならないのですね。地獄と言い、餓鬼と言い、畜生と言うもそれは自分の思いの反映に過ぎません。世を見、人を見る。それは自分の目で見自分の心で思うわけですから、見るも思うもわが心の所産に過ぎませんね。仏の教えは、一人一人の命の中からの解決の法を示して下さるのです。この世は地獄餓鬼畜生の三つの悪道に満ち満ちている。地獄(耐えられない苦の世界)餓鬼(経済欲望の世界)畜生(身に引き受けられない無理の世界)今日の世界の状況も同じ事ですね。お釈迦様の時代も三千年後の平成の時代も変わる事はありません。愈その度は、いや増しに拡大しているのではありませんか。実は環境と言う外界の姿は、心境と言う内界の姿の反映に過ぎません。自己保身の心で思い、見、行う時、思うように事は運ばれて行きません。自己保身。これが煩悩の根源です。実は自己は自己では護れないのです。自己は自己でこそ護るべきと思う心は他を疑う思い上がった慢心から生まれる心です。今現にあるこの身は、愛情溢れる親と社会の人達の情愛に抱かれて来た賜物では無かったでしょうか。親鸞聖人がお書きになった正信偈(くわしくは、正信念仏偈)の中に、邪見驕慢の悪衆生と言う言葉がありますが、邪まな目、間違った心(全てに関わりを持って居る私と言う事を知らない心)に気づかして戴く事が教えに遇う事なんですね。