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熊本県長洲町安正寺

エコウ6月号第294号
2000年6月1日発行

三部の経典

6回 全 連載 

 不退転と言う事を龍樹大師はアビバッチと言われます。よく政治家の人が不退転の決意で、とおっしゃいますが、現実にはそうなってはいないですね。不退転と言うのは、人間の決意ぐらいで出来るものでは無いのです。これは智恵の世界の出来事ですから、智恵その物の働きで自然(ジネン)その物の中に安住(立つ)させて戴く事実の確認が不退転と言う事で、実は身と心の世界の位を表します。不退転の位と言い、またそれを正定聚(ショウジョウジュ)の位とも言い、どんな状況に立ち至っても微動だにもしない境地を表します。実はこの境地に立たせて下さる所に、浄土真宗の教えがあります。これは他の教えの及ばないところです。それはまた、お釈迦様からずっと今日まで伝統して居る事実であります。それを親鸞聖人は浄土真宗とお示しになります。これは日常茶飯事に証明されている事実であります。事実と言っても自力分別の世界での事実は各々個人的な思いの世界の事実ですから、真事実とは言えないのです。そう思っているに過ぎません。浄土真宗の事実は真実、過去未来現在に通じて変わりなき真実なる事実を言います。如来の信と行に生かされている私達の事実を言います。如来の信を大信と言い如来の行を大行と言います。大と言うのは(正と勝)を表します。正しく勝れた願いと行(ギョウ=行動)を表します。 如来の真実の信と行は全ての人に平等に注がれています。おれがの心で妬み(ネタミ)嫉み(ソネミ)怒り(イカリ)争い、身と口と心で殺し合い傷め合う世間の相は半端な人間の思いでさえ悲しいものを、如来は大いなる悲しみ、それを大悲心と言いますが、深い深い悲しみをもってその悲しみの因を如来自身が背負うて下さっている心と行を南無阿弥陀仏の声に込めて下さってあるのです。だから南無阿弥陀仏の声の中に称え乍ら如来の信と行を知らせて戴くのです。お念仏の声の中に誰の人も平等に如来大悲のお心を知らして戴く所に、同じ如来のお心の中にいる者同士の安らぎと親しさとを戴いて心の中で手を取り合う帰命無量壽如来、南無不可思議光の世界が開かれて来ます。それは如来のお力、人間の分別からは到底出て来ない世界です。その世界が誰にでも間違いなく平等に必ず贈られる世界を他力本願と言うのです。よく政治家が或いは識者と自認する人が他力本願では駄目だなんて言いますが、全く無知である事を証明している事実に気付かない愚か者と言わなければなりません。駄目なのは自力にあります。あらゆる罪悪、犯罪全て自力の産物ではありませんか。自力の根本には無明(真実に暗い)があります。その闇の中に光り(智恵)を灯して下さるのがお念仏の教えです。阿弥陀仏は限りなき光り(智恵)を必ず全ての人に与えたいと言う約束をして現在進行形です。皆さんが今聞いていらっしゃるその事が現在進行形の一齣です。既に如来の信と行の真っ只中に今居るんですね。如来の信は一心・淳心・相続心一心は二心でない。淳心は(深く厚く純な)心。相続心は絶える事無く、願いが成就するまで休む事の無い心。その信を間違いなく一人一人の心に届けたいと言う如来の行がお念仏なんです。だから、お念仏を大行と言うのです。如来の行ですね。如来の行ですから私達が称えても私の行とはならないのです。私達の行でないから、お念仏は人間の行の中で最も正しい勝れた行と言う事が出来ます。歎異抄の第一章に・念仏に勝るべき善なし・と教えられてあります。念仏は仏を念ずるのですが、一文不知の凡夫。一文不知と言うのは真実なる智恵・如来の信と行には全く承知無き身と言う事で、凡夫と言うのは、いいかげんな身と心で絶対大丈夫と思って日暮らしをしている状態を言うのです。その凡夫に如来は拘わり切って南無阿弥陀仏と自ら名乗って真実の親あり貴方を離さない親に気づいてほしいと念じて下さっているのが念仏ですから、如来の念力で念仏して如来の念力に遇わして戴く時、如来が私となり、私の中に在します如来のお心とお働きとが私の心に輝いて、小さな愚かな心に、大きな限りなき智恵の心が私の身と心の全責任を背負って下さるお働きの事実を知らしていただけば、朝な夕なに、お内仏(お仏壇)の御本尊(南無阿弥陀仏)に帰命し礼拝し限りなき壽(イノチ) のお働きに感謝し、そのお心を戴く為にお法 (ミノリ=教え)を聞かして戴く事が大切です。