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熊本県長洲町安正寺

エコウ5月号第293号
2000年5月1日発行

三部の経典

5回 全 連載 

 親鸞聖人が廿年間比叡の山で学び修められた仏教と仏道では、どうしても納得出来る物ではなかったのです。仏の教えは仏になる教えですから、その基本となる物は正しく生きるという心身を清らかにする、いわゆる六根を清浄にする行の道でありますから、苦しみ悲しみ憂い悩み嘆く心を静めて、涅槃寂静の境位を得ると言う事であり、また今すぐその道は得られなくともいつかわ必ず得られると言う確信さえ得られればと言う期待も得られなかったわけですね。でも一方で、比叡の山の麓、吉水ではすでに廿年にわたって浄土宗が開かれて、唯念仏一つで弥陀の浄土に往生出来ると言う法然上人の教えが説かれていたわけですね。然し法然上人に対する比叡山、奈良の仏教界からの批判と罵声は激しい物があったんですね。 浄土と言うも念仏と言うも一方的で片寄った考えで仏教以外からの批判は日本の国さえ崩壊させるものでは無いかとの批判も出て居るような状態の中に、親鸞聖人は静かに真実の仏道を求めて行かれました。お釈迦様が日本に生まれかわって来られたと言う聖徳太子を念じ乍ら真実の仏道を、全ての人が歩ける仏道をお示しください。と念じ続けて九十五日目の夜、夢の中で示された事は、人は夫婦となり親子の家庭を持って真実の世界を念じて行く道こそ、仏を求める菩薩の道であると言う事だったんですね。其処にこそ真実の過度人道の道があるとの信念を親鸞聖人は得られたのでした。九十六日目の四月六日法然上人をお尋ねになってお聞きになったのが、大無量壽経、観無量壽経、阿弥陀経に拠る本願念仏の教えでありました。本願を信じ念仏申さば仏になる、成仏する、念仏成仏自然なり。念仏すれば仏になる、これは自然の道理である。と言う事で本願を説かれた大無量壽経こそ真実の教えであると親鸞聖人は戴かれたのですね。如来の本願が詳しく説かれた経典、如来は従如来生、如より生まれ来られた方、如は真如とも一如とも言い、法を表します。法と言うのは一切に満ち満ちている イノチを表します。だから私達はその法の中に生かされています。その中にと言う事が摂取を表します。摂取は抱き取る事を言います。誰もこの法の中から排除される者はありません。吉本隆明さんが、この頃問題になっている(オーム)真理教、一時休眠から復活して名前を変え活動を開始して、公安委員会の監視下に置かれた集団を救う宗教は親鸞の教えの外には無いと言ってますね。この大無量壽経の教えこそ親鸞聖人の教えであります。大無量壽経は、本願を宗(ムネ)とし名号を体(タイ)とするとお示しになります。三部の経典共に仏説であります。仏説と言うのはまごう事なく釈迦牟尼仏がお説きになった経典と言う事です。そして三部の経典は共に阿弥陀仏の名がお経の題の名になっていると言う事ですね。阿弥陀は印度の言葉、その意味は無量壽、全ての中に働いて居る壽 (イノチ)その壽は光としての壽、 光りの働きを持った壽、闇を照らす壽、世の中の間違いと言う物がハッキリと知らされて来るんですね。善悪邪正(ゼンマクジャショウ) と言っても通常自分の考えを基礎にして分別しますから、自分に取って都合の良い善悪ですね。其処には必ず自分を善として悪いのは皆他人になります。自分は間違い無い者と決めてしまって居ます。下関駅構内での車での暴走殺人事件にしても、世間は悪い、誰でもいいから殺したかった。と言ってますが、事件を起こしている自分自身の行動の善悪は考えられておりません。これが人間の思考の盲点になっています。真実の教えを戴く事に拠って、世間の善悪と自己自身の善悪が知らされて来るんですね。お釈迦様は大無量壽経説法の終わりに近く、弥勒菩薩を名指しされて南無阿弥陀仏の名を聞くだけで無上大利の功徳を得る事となる。汝、世にあればこの念仏の法を説け。この法の外に一切の人と共に仏もまた助かる法は無いと知るべきであると説かれますね。弥勒菩薩はお釈迦様がこの世に教えを説かれた後をうけて、この世で教えを説かれる未来の仏様として後事を託された菩薩様です。無上大利の功徳と言うのは、迷う必要の無い身となると言う事です。それを不退転の位と言い、正定聚不退転の位とも言い、仏道に於ける大事な位で、この位こそ人生最大の問題ですね。