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熊本県長洲町安正寺

エコウ4月号第292号
2000年4月1日発行

三部の経典

4回 全 連載 

 親鸞聖人は、幾つかの名を持っていらっしゃいますね。お生まれになつた時の名は松若と言う名でした。松若の公(キミ)と呼ばれて日野の里の阿弥陀堂で遊んでいらっしゃったんでしょうね。でも四才の時お父さんと生き別れ、八才の時お母さんが病気で亡くなられます。弟と二人親の無い子となられ、仏様の世界がこよなく慕われて、伯父様に連れられて粟田口の青蓮院に行かれます。時に聖人九才、出家して仏道を歩む僧侶の道を選ばれました。ここで有名な親鸞聖人の作と言われる歌がありますね。
      明日ありと思う心のあだ桜
          夜半に嵐の吹かぬものかは
諸行無常は仏陀の第一の教えです。生きて居る今を他にして生きる時は無い。と言う事です。特に人生の方向が決まったら、即、其処に立つべきである事を教 へていらっしゃいます。日も暮れんとする夕べ、早速得度の式が行われて範宴と言う名が贈られます。松若から範宴へ。それから廿年、比叡山での求道の時を経て廿九才法然上人を尋ねて行かれます。自力聖の道は凡夫の道に非ず、凡夫煩悩の身が確実に歩ける道、それはお念仏の他に無いと教えられる吉水の法然上人にお会いになり、その意義を百日の間聴聞される事になります。本願念仏の教えに遇われた親鸞聖人は、法然上人をわが師と仰がれて弟子となり戴かれた名が綽空これには意味があります。比叡山の聖道の教えでは見出せなかった大衆の仏道を法然上人の教えによって開かれたと言う事ですね。実は聖道門と浄土門と二つの門が仏道にあり、聖道門は優れた人だけの道であり浄土門の道こそ全ての人に開かれた道である事を教え自からその門に入られた方が道綽禅師でしたから法然上人の名の源空の一字を取って綽空の名を贈られたんです。法然上人の浄土の教えに精通された親鸞聖人は、師匠の書(選択本願念仏集)の書写を許され、また御顔を図画する事を許されて、親鸞聖人は師匠と心底に不二なる事の慶びに自らの名を善信と師匠の真筆で書いて戴くように願い出て許されたと教行信証の後序に書き残していらっしゃいます。親鸞聖人はこの善信と言う名を大切にして行かれます。実はこの名は聖徳太子から戴かれた名ですね。十九才の時太子の御廟に参籠されて夢の中で戴かれた言葉でした。そのお言葉の通り法然上人に遇う事が出来また文字通り善く信ずる事が出来るみ教えに遇う事が出来て、これから善信の意味を証しする事こそ我が身に与えられた道との確信が与えられた事でした。浄土の教えを尋ねてゆく時、師匠の前に源信僧都あり、その前に善導大師あり、善導大師の前に道綽禅師あり、道綽禅師の前に曇鸞大師あり、曇鸞大師の前に龍樹大師、天親菩薩がいらっしゃる事が明らかになって来ました。龍樹大師は八宗の祖師と言われるように、釈尊一代の教えを集大成して数多の論を製作して、難行易行の道を示して自らの道として称名念仏の道に立たれました。龍樹大師はあらゆる面で優れた方でしたが、優れていればいる程、末完の我を見る目も優れていて、怯弱下劣 (コニャクゲレツ)であって大人志幹 (ダイニンシカン)の身では無いと自覚して知恵少なく意志弱き身の自覚で大願業力の念仏の道に入られたんですね。その教えに依って 天親菩薩は浄土の三部経を戴き無量寿経論(願生偈)=(浄土論)を御書きになり、釈尊の御恩と阿弥陀如来の御働きを現実の中に戴けた喜びを述べておられますね。勿論天親菩薩は初めから阿弥陀仏の教えに会われたのではなかったんです。念仏するだけで助かる筈が無い。と却って反発しておられたんですが、兄さんの心からのお話しに念仏の真意に目覚め一心に念仏の心を尋ねて行かれました。浄土の三部経を尋ねて行く時、お説きになる釈尊の一心と阿弥陀仏の一心とが天親菩薩の一心となり、その一心は阿弥陀仏の一心からの働きであるとする曇鸞大師の他力の教えによって、念仏の真意は如来他力の一心にあったと目覚められた親鸞聖人は、その時から自ら親鸞と名告られたんですね。自ら名告る事が出来た名、その名は如来から賜った名、自分の思いに沿わぬとして罪人とし、名を奪い取って越後の国に流し者とした国の中で堂々と生きる道が南無阿弥陀仏の道であった。そしてその道こそいかなる人も輝けるわが道として歩む事が出来る人としての名、それが親鸞と言う名であり仏道を歩む全ての人の名なんですね。