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熊本県長洲町安正寺
エコウ3月号第291号
2000年3月1日発行
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三部の経典 |
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3回 全 連載 |
| 佛説無量壽経・佛説観無量壽経・佛説阿弥陀経・共にこれ、無量壽佛の名がお経の題名になっておりますね。無量壽佛を経題として説かれた経典は此の三部経の他にはありません。無量壽佛に関してはこれより他には無く、またこれより他に必要ない程、深く広く説かれてあります。仏説無量壽経はまた、聞無量壽経と言われる様に、本当に聞くべき教えはこの他にないと言える程大事な事が説かれてあります。観無量壽経は経の題の通り観と言う、無量壽佛に遇う道が説かれてあります。そしてまたこの観は、無量壽佛のお国と姿とお心を観(ミル)る事が出来ると同時に、観(み)ている人自身が観(ミ)えてくるんです。だからこの観は無量壽佛の観であり、無量壽佛を観ずる人間の観をも観ずる道が説かれてありますね。人は物を見る時、見る対象を見て居るようですけれども、自分の思いをくっつけて見ていますから、見ているその物を確かに間違いなく見ているとは言えないんですね。もう一つ見ている自分自身の目その物を見て確かめる必要があります。自分の心を自分の心で見ると言う事はそう簡単には出来ません。自分の手で自分を持ち上げる事が出来ない様に、全く不可能な事です。其処に観無量壽経が大事な経典である理由があります。この経をまた別に無量壽佛観経とも言います。無量壽佛が観(ミ)て下さった私の姿が説かれてあるんです。佛様をじっと見つめて見たら、既に仏様が見つめて居て下さった事が知らされるんですね。仏様阿弥陀様はどんな仏様であるか、それは十方衆生、生きとし生きる全ての人を、今日ただ今独生、独死、独去、独来する一人一人の人間を確かに生きる人間としたい。と、久遠の古えから働き続けていらっしゃる力の仏様ですね。力の仏様を大行の仏様と言います。この大行の仏様と言う事をはっきりと教えて下さったのが親鸞聖人です。唯念仏せよと教えられたのは法然上人ですね。それは阿弥陀仏は本願の中で念仏する者を救うと御約束なさって、もし助からんようであったら阿弥陀仏と言う名を返上しましょうとお誓いなさったので、この念仏こそ必ず助かる行であるとお示しになり、阿弥陀様のお浄土に生まれる事が出来るのであると教えられますね。でも阿弥陀様の世界に生まれて助かると言う事は、人の命が終わってからになりますね。助かると言う事は、助からないと言う状況の中で助かると言う事がなければ、助かると言う意味がありませんね。私達に問題なのは、只今此処で救いが実現しなければ、どんなに助かると言ってみても取らぬタヌキの皮算用になってしまいます。つまり絵空言、観念の世界、夢物語りになりますね。浄土真宗の御開山、親鸞聖人は現実只今の救いを顕かにして下さったんです。この身は凡夫、この凡夫と言う言葉は、お釈迦様が一人息子に夫は殺され自分までも殺されようとした母親である皇后(イダイケ)の救いを求める前に立たれておっしゃったお言葉ですね。観無量壽経の中に出て居ます。「汝是れ凡夫」親鸞聖人はその凡夫についてお手紙の中に、凡夫と言うは、無明煩悩我らが身に満ち満ちて、欲も多く怒り腹立ち嫉み妬み多く暇なくして臨終に至るまで止まら消えず絶えず。と、善導大師がおっしゃってますよ。と、書いていらっしゃいますね。つまり凡夫は煩悩妄念の中で迷いながら人生の終りまで無明から離れられないと言う事です。その様な迷いの目で仏様を見ようとしても見定める事は出来ないと言う事ですね。だから法然上人は唯一心にお念仏するほかに凡夫の助かる道は無いとおっしゃるんですけれども、その一心にお念仏する事さえも出来ない所にいるのが凡夫の現実ではないか。と、親鸞聖人はおっしゃるんですね。ではどうしたら一心と言う世界に私達は通ずる事ができるのだろうか。実はその事一つを顕らかにして下さったのが親鸞聖人でした。実はこの親鸞と言う名は三十五才の時、自分で名乗られた名前ですね。この名に一心の心が秘められています。親鸞と言う名の元を尋ねて見ますと、印度の天親菩薩、中国の曇鸞大師、このお二人の名の一字づつを戴いて親鸞と名乗られました。その時は、親鸞聖人は法然上人と共に罪人として流罪に処せられ、越後の国にながされ、名前も身分も剥奪された状態の中であえて名乗られた名ですから命がこめられた名なんですね。 |
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